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2007年2月24日 (土)

時計番はエライのだ

沖縄と時計といえば、まず思いうかべるのは「ウチナータイム」ですね。おおらかなのか怠惰なのか、約束の時間をキッチリ守らない“沖縄時間”のことです。王国時代には「ウチナータイム」はあったのでしょうか。今回は琉球の歴史と時間との関わりを紹介しましょう。

Cimg06551 世界遺産・首里城の漏刻門付近には、王国時代に使われていた時計があるのをご存じでしょうか。この時計は太陽の光によって時間を計測する日時計。先の戦争で破壊されましたが、古写真や図面などをもとに2000年に復元されたものです【画像。クリックで拡大】。

この日時計が設置されたのは近世(江戸時代)の1744年のことです。日時計の導入を進めたのは、あの大政治家と呼ばれた蔡温です。実は、首里城の門の名前(漏刻門)からもわかるように、蔡温による日時計の設置以前にも、ここには時計(漏刻器。水時計)が設置されていました。古い記録から1463年(古琉球時代)にすでに存在していたことがわかりますが、この時計はあまり正確ではなかったようです。

蔡温は西原の幸地村(刻時嶺)であらかじめ日時計の実験をおこない、5年間の観測の後に首里城に導入します。この時計によって、琉球では正確な時間が計れるようになります。しかし、時計の改革はこれだけではありませんでした。従来は下級役人に時間をはからせていたのを、何と黄冠(ハチマキの色が黄色。親雲上)クラスの役人に変更、しかも当番の半分は久米村(中国系移民)の士族に担当させるのです。

黄冠といえば今でいえば部長クラス。今までヒラ社員が行なっていた書類のコピーとかお茶くみのような仕事を、なぜわざわざ部長クラスの人間にさせたのでしょうか。また首里城の時計をはかる仕事に、なぜ那覇の久米村の士族たちをかり出さなければならなかったのでしょうか。

実は、蔡温による時計の改革は、単に時間測定の精度を技術的に高めて生活の向上に役立てることが目的だったのではありませんでした。その真の目的は、「支配者が自らの統治する世界の時間を掌握する」ことにありました。支配者はその世界を空間的に支配するだけでなく、時間も支配しなくてはならない、と当時の中国を中心とした東アジア世界では考えられていたのです。

例えば中国の朝貢国は必ず中国の年号を使わなくてはなりません。これは中国の元号や暦を使うことによって、中国皇帝が朝貢国の時間も「支配」すると考えられたから。時間をあつかうことは、現代の我々からは考えられないほど尊く、重要な統治行為であったのです。

蔡温はこの中国的な考えから見て、それまで「時間」をテーゲー(適当)にあつかっている琉球の状況を変えようとしたわけです。つまり今でいう意味とはちょっと違いますが、「ウチナータイム」を「チャイナタイム」、当時の「グローバルスタンダード」に変えようとしたと言えるのではないでしょうか。

中国的な価値観から時間を大事にしようとしたからこそ、時計番に部長クラスの役人と、中国文化の伝道者である久米村の士族たちを投入したわけですね。

参考文献:『球陽』、『那覇市史』通史篇1

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2007年2月16日 (金)

単行本、予約開始!

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みなさま、長らくお待たせしました。

単行本「目からウロコの琉球・沖縄史」、先行予約の受付開始です!

予約はボーダーインクさんのサイトからできます。

予約はこちらから

店頭に並ぶのは3月初旬になりますが、ネットから予約された方はそれより早く届きます。

送料は何と無料!

本土の書店に並ぶのはさらに1ヶ月遅れになりますから(しかも大きな書店のみ)、

沖縄在住ではない方は、ネットでの注文がより早く、確実に入手することができますよ。

単行本はブログにはないイラストや図解(全てとらひこ画)、書き下ろしのコラムなど特典盛りだくさんです。

単行本「目からウロコの琉球・沖縄史」、どうぞよろしくお願いします!

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戦国インテリジェンス―海域アジアをめぐる諜報戦―(4)

誤認情報はなぜ発せられたのか
明朝の対秀吉戦争に対する政策決定に重大な影響を及ぼした東シナ海経由のインテリジェンス。示し合わせてもいないのに、複数の情報源から期を一にしたような誤認情報がなぜ発せられたのでしょうか。それは発信者が意図的にニセ情報をつかませようとしていたのではなく、当時の日本国内では「朝鮮が日本に従属した」と本気で信じられていたからでした。

事の発端は1590年(天正18、万暦18)、朝鮮から黄允吉(ファンユンギル)らの外交使節団が日本へ派遣されたことでした。秀吉から朝鮮へは対馬の宗氏を介するかたちで服属と国王の来日要求が出されていました。しかしこのような理不尽な要求を朝鮮側が呑むはずがありません。

朝鮮との交流の歴史が長く、友好的関係を築いていた宗氏は両者の間でジレンマとなります。窮した宗氏は秀吉の服属要求を“秀吉の日本統一の祝賀のために来日してくれ”との内容に密かにすり替え、また朝鮮を荒らした倭寇を逮捕・引渡しをするという「土産」を持って、朝鮮使節団の来日を実現させたのです。

当然、日本側では「朝鮮は我らの服属要求を呑んで使節を派遣した」ととられ、しかも「朝鮮の関白」が来日したとの誤認情報が広く信じられていきます。友好のための使者が一方的に服属の使者にされているとは…朝鮮側からすればこんなバカな話はありません。

しかしどのような理由にせよ、朝鮮王朝が使節を来日させたことは事実であり、これをもとに作り上げられた風説は、当時の人々が持っていた朝鮮を見下す風潮とあいまって、日本において「常識」として定着してしまいます。琉球や許儀後らが明朝にもたらした情報は、当人たちも本気で信じていた情報だったのです。

朝鮮側の動揺
朝鮮は日本への使節の派遣によって秀吉が明征服を企んでいることを知り、朝鮮が勝手に明征服の先導役と位置づけられていることに驚きますが、この重大情報を宗主国の明朝にただちに通報することはしませんでした。朝鮮国内では秀吉が本当に出兵をするのかどうか、また秀吉の情報を明朝に報告するかどうかで国論が真っ二つに割れていたからです。

この背景には朝鮮国内における党派(東人派と西人派)の対立があります。さらに朝鮮では、明朝へ秀吉情報を報告することで、情報源となった日本へ使節を派遣した事実が知られることに強い懸念を持っていました。この行為が日本と内通しているという誤解を生むことを恐れたのです。結局、朝鮮は日本への使節派遣の事実を隠して秀吉情報を報告することになります。

しかし、時すでに遅し。朝鮮が明朝へ報告する頃には琉球発の情報が中国国内を風靡していて、道中の朝鮮使節は中国の人々に「この裏切り者!」とさんざんに罵倒される始末。以後、朝鮮側は火消しに追われることになりますが、当事者であるはずの朝鮮からの報告の遅れは不信を生み、この内通疑惑は明朝のなかで強まることはあっても弱まることは決してありませんでした。明朝と朝鮮は、疑心暗鬼のなかで秀吉の侵攻軍を迎え撃つことになるのです。(つづく)

参考文献:米谷均「『全浙兵制考』「近報倭警」にみる日本情報」(『8-17世紀の東アジア地域における人・物・情報の交流』科研報告書)

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2007年2月 9日 (金)

消火ポンプを導入せよ!

沖縄にはまだまだ知られていない歴史の出来事がたくさんあります。今回は王国時代の消火ポンプ導入にかんする話です。

今も昔も変わらないのが火事の恐ろしさ。今でこそコンクリート造りで、火災報知機やスプリンクラーなど防火設備の整った家がたくさんありますが、かつての琉球の家は火事に非常に弱い木造住宅でした。しかも日常的に灯りや料理に直接火を使う危険な環境です。いったん火事になれば消すのは困難で、住宅が密集する都市部ではあっという間に燃え広がってしまいます。

琉球ではしばしば火災が発生して多くの民家に被害をもたらすことがありました。王府は住宅の密集する那覇などに防火用の池などをつくるなどの対策を講じますが、さらに1741年、「惣与方(そうくみほう)」と呼ばれる消防組織を新たにつくり、防災体制を強化します。

Photo_15 対策はこれだけではありませんでした。王府は翌年、何と当時最新鋭だった中国(清朝)の消火ポンプ導入をはかります。そのポンプの名前は「救火水龍(きゅうかすいりゅう)」。空気の圧力を利用して水を飛ばすしくみの手押し式ポンプだったとみられます。【画像。クリックで拡大】は江戸時代の日本で使われた「龍吐水(りゅうどすい)」と呼ばれる消火ポンプですが、「救火水龍」は基本的にこれと同じ構造のものだったと考えられます。

琉球は中国福建省で重さ約500キロの大型ポンプを業者に発注、進貢船に載せて琉球へ持ち帰ろうとします。ところが、ここで予想しなかった問題が発生。この消火ポンプが中国の輸出規制にひっかかり、貿易監督官から告発されてしまったのです。

琉球は中国で様々な品物を売買していましたが、何でもかんでも琉球に持ち帰れたわけではありませんでした。当時の中国には輸出禁制品があって国外持ち出しが厳しくチェックされていました。消火ポンプが禁制品だったのでしょうか…?いえ。そうではなくて、規制にかかったわけは、消火ポンプの水槽などに使われていた銅や鉄、鉛が国外への持ち出し禁止品だったからでした。

これは現代で例えてみれば、ゲーム機「プレイステーション2」が北朝鮮への輸出規制品になっているのと似たようなものでしょうか。規制は金正日にゲームをさせないことを目的としているのではなくて、ゲーム機内臓の装置が軍事転用される危険性があるからです。消火ポンプの輸出規制は琉球の火事を消させないのが目的だったのではなく、銅や鉄などの金属類の国外流出を防ぎ、またこれらを材料で兵器製造をさせないためのものだったのです。

琉球側は火事の多い国内事情を説明し、ポンプ導入の許可を懇願します。消火ポンプを国外へ持ち出そうとするのは前代未聞の出来事だったらしく、中国側も困惑し、福建の地方政府では「一度例外を認めれば将来に禍根を残すことになりかねないが、琉球が従順な朝貢国であることから、今回にかぎって認めてはどうか」、と北京の乾隆帝におうかがいをたてます。琉球の消火ポンプをめぐる問題はついに中国皇帝の裁可をあおぐ事態にまでいたるのです。

さいわい皇帝はこれを許可し、最新式の消火ポンプは無事、琉球へもたらされることとなりました。琉球では消火ポンプの持ち出し許可に対して、「まことに琉球国王、および我が臣民が望外の皇帝陛下のお慈悲にふれることは、永遠に忘れがたきことでございます!」と答えています。たかがポンプ1つに感激しすぎなような気がしますが…

すったもんだの末に導入された最新式の消火ポンプですが、実はヤマト(日本本土)の「龍吐水」導入より早く(導入は明和元年〔1764年〕)、言ってみれば、現在の「日本」で最も早く消火ポンプが導入された地域は沖縄、ということになります。琉球に導入された最新式ポンプがその後どのように使われたかは不明ですが、日本の防災史上、画期的な出来事であったのは間違いないでしょう。

参考文献:糸数兼治「救火水龍の導入について」(『歴代宝案研究』1号)

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2007年2月 2日 (金)

三山王の名前

琉球では近世(江戸時代)まで中国姓によって一族をまとめる観念がなかったことを紹介しましたが、それでは琉球の歴史に登場する王たちの名前はどうなのでしょうか。

琉球が3つの勢力(北山・中山・南山)に分かれて争っていた三山時代、歴史の記録に登場する王たちの名前は、一見するとみな中国風です。中山王の「察度」、南山王の「汪応祖」、北山王の「攀安知」などなど…しかし、彼らは代々決まった姓を継いではいません。皆バラバラな名前です。例えば「察度」の子の名前は「武寧」です。察度の「察」は姓ではないことがわかります。

これはなぜか。そのヒントは、王の名前を記した記録がすべて中国側の記録であるというところにあります。先に述べたように、近世以前の琉球の人物は、領地名を一時的に名乗ったり、童名(わらびなー)と呼ばれる琉球風の名前しか持っていませんでした。

つまり、中国風に記された三山の王の名は、琉球風の名前を中国側が聞きとってその音を漢字で表現したものだったのです。わかりやすい例でいけば南山王の「他魯毎」。琉球風の名前に変換すれば「たるもい(太郎思い)」になります。また北山王の「帕尼芝」は「はねじ(羽地)」などです。

ご存じのように中国にはアルファベットやひらがなのような表音文字はありません。だから琉球に限らず、他の国で漢字を使わず中国名のない場合は、その国の言葉の音に近い漢字で名前を表現します。例えばモンゴルのダヤン・ハンは「達延汗(ダァイェン・ハン)」、ジュシェン(女真)のアイシンギョロは「愛新覚羅(アイシンジュエルォ)」というふうにです。

ここで読者の皆さんでこう思う人がいるかもしれません。「じゃあ尚氏はどうなんだ?尚は代々受け継がれてるぞ。あれは中国風の姓じゃないか!」と。確かに琉球国王の尚氏は代々「尚」姓を継いでいます。しかし、この「尚」姓、はじめから中国姓として使われていたのではありません。

「尚」姓が使われはじめるのは第一尚氏の王、尚巴志(しょうはし)からです。彼の父の名は「思紹(ししょう)」。「尚思紹」ではありません、「思紹」です。彼が生きていた時代の記録には全て「思紹」として登場します。

「思紹」「尚巴志」も、当時彼らが名乗っていた琉球風の名前に漢字を当てはめただけである可能性が非常に高いのです。「思紹」は「シチャ」、「尚巴志」は「サバチ」または「小按司(しょうあじ)」の当て字ではないかと考えられています。

尚巴志の次の王は「尚忠」といい、以後は尚巴志の「尚」の字を代々継いでいきます。一説には尚巴志が明朝より「尚」姓を与えられたとされていますが、当時の記録でそれを示す確かな根拠はありません。「尚」姓の使用は、中国との交流で琉球名を便宜的に中国風に使用し、やがて琉球国内でもその中国姓が定着したものとみていいと思います。尚巴志の父である思紹も、後世このルールを当てはめて「尚思紹」としたのです。

実は「尚巴志」→「尚」姓のように琉球名をヒントに中国姓に変換していく例は他にもあります。例えば琉球名「あはごん」を「阿覇勲(阿範坤)」と表現し、やがて上の漢字をとって代々「阿」姓を名乗る例。また琉球名「まふと」を「麻普都」と表現し、やがて代々「麻」姓を名乗る例。

これらの一族の姓が決まるのは「尚」姓が定まるよりずっと後の時代になりますが、国王の「尚」姓と同じ方式で成立した中国姓であることがわかります。

参考文献:田名真之『沖縄近世史の諸相』、原田禹雄『琉球と中国』

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