戦国インテリジェンス―海域アジアをめぐる諜報戦―(1)
「外交は武器を使わない戦争」であり、国際舞台の背後では様々な情報戦が繰り広げられている。「インテリジェンス(情報・諜報)」はその戦いに不可欠な武器であり、国家の命運を担う政治指導者が舵(かじ)を定めるための羅針盤である。
手嶋龍一・佐藤優『インテリジェンス―武器なき戦争』(幻冬舎新書、2006)の一節です。情報分析が一国の命運を左右するのは、何も現代に限ったことではありません。かつて太平洋戦争で情報を有効活用できず敗北した日本もそうですし、また16世紀、豊臣秀吉によって起こされた東アジアの覇権をめぐる大戦争(朝鮮出兵)においても、それは例外ではありませんでした。
秀吉のアジア征服戦争
はじめに秀吉の朝鮮出兵について簡単に説明しておきましょう。
1592年(文禄元・万暦20)、豊臣秀吉は明を征服しアジア世界を支配下に収めるべく朝鮮へ侵攻を開始します。加藤清正・小西行長をはじめとした16万の大軍は破竹の快進撃を続け、わずか20日で首都ソウルを陥落させます。朝鮮国王は100人の手勢で命からがら逃亡し、王子は日本軍の捕虜となりました。朝鮮王朝は滅亡寸前に追いこまれたのです。
秀吉は、次のようなアジア支配を構想していました。
(1)明の北京へ後陽成天皇と関白の豊臣秀次を移して都とし、天皇・公家衆に北京周辺10カ国を進上し、関白には周辺100カ国を与える。
(2)日本の天皇には皇太子の良仁親王か皇弟の智仁親王を、関白には羽柴秀保か宇喜多秀家を任命する。
(3)朝鮮には織田秀信(信長の孫)か宇喜多秀家を、肥前名護屋には小早川秀秋を置く。
(4)秀吉は日中貿易の窓口であった中国寧波に移り、ここを拠点としてさらにインド征服戦争を実行する。
(5)琉球・高山国(台湾)・スペイン領フィリピン・インドのゴアに服属要求を送り、東南アジア方面も版図に収める。
途方もない大計画です。朝鮮への侵攻は朝鮮そのものが目的だったのではなく、あくまでも「仮途入明(道を借りて明に入ること)」が目的だったことがわかります。
秀吉の朝鮮出兵の評価について、「朝鮮人民を虐殺した日本帝国主義による野蛮な侵略行為」などと結論付けるのは簡単です。たしかに朝鮮側からみれば「侵略」以外の何者でもなく、多くの人々を苦しめたことは否定できません。
しかし世界史の大局から俯瞰(ふかん)すれば、秀吉の動きは16世紀の中国・明を中心とした東アジアの国際秩序解体と空前の世界的商業ブームのなかで、台頭した周辺の新興軍事勢力が明に代わって「中華」の地位を奪おうとする動きだった、とみることができます。
周知のように秀吉の試みは明・朝鮮の抵抗で失敗に終わるのですが、その後、漢民族の「中華」を倒してアジア世界の覇権を握ったのが北方の軍事勢力・女真(満州・清朝)でした。つまり漢民族(明朝)の「中華」の地位を1度目は日本が奪おうとして失敗し、2度目には女真が挑戦してこれに成功したのです。
秀吉は北京と日本にそれぞれ天皇・関白を置くことを予定していました。秀吉は天皇と関白(秀吉一族を任命)を核とした統治を日本で確立させていましたが、この統治方式をアジア全土まで拡大させ、秀吉自身は天皇・関白制度を超越した「中華皇帝」として君臨することを想定していたと考えられています。
秀吉の試みは明確に「華夷変態(夷が華にとって代わること)」の動きをはらんでいたのです。(つづく)
参考文献:北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』、池享編『日本の時代史13』、岸本美緒「東アジア・東南アジア伝統社会の形成」(『岩波講座世界歴史13』)
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コメント
村井章介氏が『中世倭人伝』(岩波新書)の中で、秀吉の居所がシナ海交易の要衝である寧波に予定されていることに注目し、「この意味で秀吉は、かの倭寇王王直の血をひく倭寇的勢力の統括者である」と述べておられますが、秀吉の朝鮮出兵を「誇大妄想狂の侵略主義」と切り捨てるのではなく、空間的にも時間的にも幅広い射程の中で位置づけることが必要ですね。
投稿: 御座候 | 2007年3月12日 (月) 20:15
>御座候さん
おっしゃるように、この時期の日本史で求められているのは一国の視野にとどまらないことでしょうね。「戦国英雄史観」はそろそろ卒業してほしいものです。村井氏の『海から見た戦国日本』の視点が共通認識になっていけばと思います。
投稿: とらひこ | 2007年3月13日 (火) 00:39