戦国インテリジェンス―海域アジアをめぐる諜報戦―(2)
琉球発、秀吉の朝鮮侵攻情報
秀吉のアジア征服戦争の開戦前夜、海域アジア世界では活発な諜報活動が展開されていました。
秀吉の朝鮮侵攻を事前に察知し、明朝へ最初に通報したのは、実は琉球でした。通報者は長史(高位の王府官人)の鄭迵(ていどう。謝名親方)と福建商人の陳申(ちんしん)。秀吉の朝鮮侵攻をさかのぼること1年前、1591年(天正19・万暦19)4月に中国福建へ情報がもたらされ、さらに北京の明朝廷へと転送されています。
情報は「日本を統一した倭王の関白(秀吉)が中国征服の野望を抱き、我が琉球にも服属を迫ってきた。秀吉は兵200万と号し、朝鮮と華南地方への侵攻を準備中である。我らは協力を拒絶したが、朝鮮はすでに屈し、日本軍の道案内をする予定である」という内容です。
当時、琉球には薩摩の島津氏を通じ日本への服属と明征服の軍役が強要されていて、圧力に抗しきれずに王府は兵糧米を一部供出することで難局をひとまず乗り切ります。琉球はこれらの交渉過程で明らかになった秀吉の計画を明朝に伝えたのです(ただし秀吉の要求を一部受け入れた事実は隠す)。鄭迵は琉球に居留していた福建商人の陳申と連携し、彼を琉球船に乗せて帰国させ、福建の地方政府へ侵攻計画を記した報告書を提出させます。
さらに陳申の報告は、琉球に渡航した日本商人から入手した情報も含まれています。当時のインテリジェンス活動は、当然ながらヒューミント(人間を主体とした諜報活動)しかありません。情報はヒトに付随してもたらされるもの。琉球には貿易のため海域アジアで活動する様々な人々が集まっていて、琉球はいわばインテリジェンスの集積地としての性格を持っていました。
琉球から明へ情報をもたらした陳申は、秀吉の朝鮮侵攻が開始された後には明軍の密偵もつとめています。多種多様な情報とヒューマン・ネットワークを持つ海商たちは、「インテリジェンス・オフィサー」としての役割も担うことができたのです。
しかし「朝鮮はすでに秀吉の軍門に降った」という誤認情報が明と朝鮮との仲に亀裂を招き、以降の対秀吉戦争に深刻な影響を及ぼすことになろうとは…当の通報者である琉球が予想だにしなかった事態が、この後待ちかまえています。(つづく)
参考文献:米谷均「『全浙兵制考』「近報倭警」にみる日本情報」(『8-17世紀の東アジア地域における人・物・情報の交流』科研報告書)
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コメント
沖縄の歴史に興味があり、勉強したいと思っています
有難う御座います
投稿: 大城育子 | 2007年1月17日 (水) 21:24
>大城育子さま
訪問ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。何か質問などがありましたら遠慮なくどうぞ。可能なかぎりお答えします。
投稿: とらひこ | 2007年1月20日 (土) 00:18