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2007年1月26日 (金)

沖縄で「向」といえば…

突然ですがクイズです。

「向」

この字は琉球で何と読むでしょう?

「こう」「むかい」と読んだ人、沖縄の歴史は初心者のようですね。

「しょう」と読んだ人、沖縄の歴史についてけっこう詳しい。

正解は「しょう」です。

これがわかる人は、おそらくこの字についてこう説明するでしょう。「これは琉球王家の一族が名乗る姓で、国王の姓«»と区別するために«尚»の字を二画とって«»とした。よって読み方は«尚»と同じである。さらに王族は下の名前には«»を名乗ったんだ」と。

もちろんこれも正解です。現在では王族の子孫は「向」を名乗ることはありませんが、代々名前に「朝」をつけているので、それで王族かどうか判断できる場合があります。(例えば朝義とか朝助とか)

しかし、王族が「向」姓を名乗りはじめるのは沖縄の歴史のなかでも比較的新しい時代で、かつては姓そのものがなかっただけではなく、姓が名乗られはじめた頃には、王族が「向」姓を使うという決まりは全くなかった。この事実を知っている人はそう多くはないと思います。

琉球人が中国名を名乗りはじめるのは近世(江戸時代)に入ってからです(こちら参照)。中国名が使われはじめた頃の王族の姓は、何と「呉」とか「宗」、「魏」や「韶」などメチャクチャ。下の名前につけるはずの「朝」もほとんど使われておらず、「重」とか「典」、「義」などこれまたメチャクチャ。

例えば有名な羽地朝秀(向象賢)は、彼が生きていた時に使われていた中国名は何と「呉象賢」。名前も「重家」です。しかも羽地を名乗る前は大嶺です。大嶺重家(呉象賢)、これだと誰だかわからなくなってしまいますね。

要するに、琉球にはもともと一族の血筋を姓によってまとめ、他の一族と区別するという観念がなかっただけでなく、当初は中国名の統一的な使用のルールもなかったということです。王族の姓が現在知られている姿になるのは琉球王国の構造改革が行われて以降の1692年(構造改革についてはこちら参照)。「門中(もんちゅう。むんちゅうとも呼ぶ)」という沖縄の家制度もこの時期から成立してくるのです。

沖縄の「向」姓について、これだけ説明できればほぼ完ぺキだと思います。これでみなさんも沖縄の歴史通の仲間入り?かもしれません。

参考文献:田名真之『沖縄近世史の諸相』

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2007年1月24日 (水)

本の編集状況はここから

コメントで「目からウロコ」単行本の進行状況について質問があったのでお答えします。

進行状況は、出版するボーダーインクさんのサイトから確認できます。

確認はここから

お待たせしておりますが、もうしばらくです。

ブックマークにも入れておきますので、気になった方はそちらのほうからチェックしてみてください。

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2007年1月20日 (土)

戦国インテリジェンス―海域アジアをめぐる諜報戦―(3)

朝鮮が明を裏切った?
朝鮮が大明国を裏切って日本とともに攻撃してくる――琉球からもたらされたこの情報は、明の朝廷に衝撃を与えます。

Photo_12 荒唐無稽(こうとうむけい)に思えるこの情報ですが、中国では信頼性の高いインテリジェンスとして受けとめられ、わずか数ヶ月の間に北京だけでなく中国北部、遼東半島まで「真実」としてあっという間に流布していきます。朝廷ではこの問題をめぐって議論が紛糾し、事の真偽を確認すべく、明朝の兵部(防衛省)からの指令で朝鮮へ真相究明のための使者が向かう事態となります。

琉球発の情報については、明朝の一部では疑いを持つ者がいないわけではありませんでした。しかし他のニュースソースから「朝鮮が裏切った」という同内容情報が、その後明朝に次々ともたらされていきます。

特に決定的だったのが薩摩の島津義久側近であった中国人医師・許儀後(きょぎご)と郭国安(かくこくあん)からもたらされた機密情報です。九州に一大勢力を持つ島津氏の側近からのインテリジェンスは明朝廷にとっても重大な情報として認識されたようです。

島津氏側近の中国人
許儀後はもと江西省出身で、広東の海上を航行中に倭寇に襲撃され薩摩の京泊まで連行された人物でした。彼は医師としての能力を買われて島津義久に召しかかえられ、側近として仕えていました。郭国安も許儀後とともに倭寇に拉致されて薩摩に連行され、「汾陽(かわみなみ)理心」と名乗って義久の侍医となっていた人物です。

許儀後は義久に随行して実際に秀吉にも会っており、一般の立場からは知りえない秀吉侵攻情報や実見した日本の内情などの機密情報を、薩摩に拉致されてきていた朱均旺(しゅきんおう)という福建商人に託して明朝に伝えようとしたのです。朱均旺は薩摩にたまたま寄港していた中国商船に乗って脱出、福建へ帰還し、明朝にこの機密情報を報告します。

彼らの情報は福建から北京の朝廷に伝達されてトップの万暦帝(ばんれきてい)にまで届き、以後の対秀吉戦争を通じて、講和交渉期の段階にいたっても良質なインテリジェンスとして北京中枢の官僚たちに重視されていくのです。(つづく)

参考文献:米谷均「『全浙兵制考』「近報倭警」にみる日本情報」(『8-17世紀の東アジア地域における人・物・情報の交流』科研報告書)

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2007年1月12日 (金)

戦国インテリジェンス―海域アジアをめぐる諜報戦―(2)

琉球発、秀吉の朝鮮侵攻情報
秀吉のアジア征服戦争の開戦前夜、海域アジア世界では活発な諜報活動が展開されていました。

秀吉の朝鮮侵攻を事前に察知し、明朝へ最初に通報したのは、実は琉球でした。通報者は長史(高位の王府官人)の鄭迵(ていどう。謝名親方)と福建商人の陳申(ちんしん)。秀吉の朝鮮侵攻をさかのぼること1年前、1591年(天正19・万暦19)4月に中国福建へ情報がもたらされ、さらに北京の明朝廷へと転送されています。

情報は「日本を統一した倭王の関白(秀吉)が中国征服の野望を抱き、我が琉球にも服属を迫ってきた。秀吉は兵200万と号し、朝鮮と華南地方への侵攻を準備中である。我らは協力を拒絶したが、朝鮮はすでに屈し、日本軍の道案内をする予定である」という内容です。

当時、琉球には薩摩の島津氏を通じ日本への服属と明征服の軍役が強要されていて、圧力に抗しきれずに王府は兵糧米を一部供出することで難局をひとまず乗り切ります。琉球はこれらの交渉過程で明らかになった秀吉の計画を明朝に伝えたのです(ただし秀吉の要求を一部受け入れた事実は隠す)。鄭迵は琉球に居留していた福建商人の陳申と連携し、彼を琉球船に乗せて帰国させ、福建の地方政府へ侵攻計画を記した報告書を提出させます。

さらに陳申の報告は、琉球に渡航した日本商人から入手した情報も含まれています。当時のインテリジェンス活動は、当然ながらヒューミント(人間を主体とした諜報活動)しかありません。情報はヒトに付随してもたらされるもの。琉球には貿易のため海域アジアで活動する様々な人々が集まっていて、琉球はいわばインテリジェンスの集積地としての性格を持っていました。

琉球から明へ情報をもたらした陳申は、秀吉の朝鮮侵攻が開始された後には明軍の密偵もつとめています。多種多様な情報とヒューマン・ネットワークを持つ海商たちは、「インテリジェンス・オフィサー」としての役割も担うことができたのです。

しかし「朝鮮はすでに秀吉の軍門に降った」という誤認情報が明と朝鮮との仲に亀裂を招き、以降の対秀吉戦争に深刻な影響を及ぼすことになろうとは…当の通報者である琉球が予想だにしなかった事態が、この後待ちかまえています。(つづく)

参考文献:米谷均「『全浙兵制考』「近報倭警」にみる日本情報」(『8-17世紀の東アジア地域における人・物・情報の交流』科研報告書)

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2007年1月 6日 (土)

戦国インテリジェンス―海域アジアをめぐる諜報戦―(1)

「外交は武器を使わない戦争」であり、国際舞台の背後では様々な情報戦が繰り広げられている。「インテリジェンス(情報・諜報)」はその戦いに不可欠な武器であり、国家の命運を担う政治指導者が舵(かじ)を定めるための羅針盤である。

手嶋龍一・佐藤優『インテリジェンス―武器なき戦争』(幻冬舎新書、2006)の一節です。情報分析が一国の命運を左右するのは、何も現代に限ったことではありません。かつて太平洋戦争で情報を有効活用できず敗北した日本もそうですし、また16世紀、豊臣秀吉によって起こされた東アジアの覇権をめぐる大戦争(朝鮮出兵)においても、それは例外ではありませんでした。

秀吉のアジア征服戦争
はじめに秀吉の朝鮮出兵について簡単に説明しておきましょう。

1592年(文禄元・万暦20)、豊臣秀吉は明を征服しアジア世界を支配下に収めるべく朝鮮へ侵攻を開始します。加藤清正・小西行長をはじめとした16万の大軍は破竹の快進撃を続け、わずか20日で首都ソウルを陥落させます。朝鮮国王は100人の手勢で命からがら逃亡し、王子は日本軍の捕虜となりました。朝鮮王朝は滅亡寸前に追いこまれたのです。

秀吉は、次のようなアジア支配を構想していました。

(1)明の北京へ後陽成天皇と関白の豊臣秀次を移して都とし、天皇・公家衆に北京周辺10カ国を進上し、関白には周辺100カ国を与える。
(2)日本の天皇には皇太子の良仁親王か皇弟の智仁親王を、関白には羽柴秀保か宇喜多秀家を任命する。
(3)朝鮮には織田秀信(信長の孫)か宇喜多秀家を、肥前名護屋には小早川秀秋を置く。
(4)秀吉は日中貿易の窓口であった中国寧波に移り、ここを拠点としてさらにインド征服戦争を実行する。
(5)琉球・高山国(台湾)・スペイン領フィリピン・インドのゴアに服属要求を送り、東南アジア方面も版図に収める。

途方もない大計画です。朝鮮への侵攻は朝鮮そのものが目的だったのではなく、あくまでも「仮途入明(道を借りて明に入ること)」が目的だったことがわかります。

秀吉の朝鮮出兵の評価について、「朝鮮人民を虐殺した日本帝国主義による野蛮な侵略行為」などと結論付けるのは簡単です。たしかに朝鮮側からみれば「侵略」以外の何者でもなく、多くの人々を苦しめたことは否定できません。

しかし世界史の大局から俯瞰(ふかん)すれば、秀吉の動きは16世紀の中国・明を中心とした東アジアの国際秩序解体と空前の世界的商業ブームのなかで、台頭した周辺の新興軍事勢力が明に代わって「中華」の地位を奪おうとする動きだった、とみることができます。

周知のように秀吉の試みは明・朝鮮の抵抗で失敗に終わるのですが、その後、漢民族の「中華」を倒してアジア世界の覇権を握ったのが北方の軍事勢力・女真(満州・清朝)でした。つまり漢民族(明朝)の「中華」の地位を1度目は日本が奪おうとして失敗し、2度目には女真が挑戦してこれに成功したのです。

秀吉は北京と日本にそれぞれ天皇・関白を置くことを予定していました。秀吉は天皇と関白(秀吉一族を任命)を核とした統治を日本で確立させていましたが、この統治方式をアジア全土まで拡大させ、秀吉自身は天皇・関白制度を超越した「中華皇帝」として君臨することを想定していたと考えられています。

秀吉の試みは明確に「華夷変態(夷が華にとって代わること)」の動きをはらんでいたのです。(つづく)

参考文献:北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』、池享編『日本の時代史13』、岸本美緒「東アジア・東南アジア伝統社会の形成」(『岩波講座世界歴史13』)

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2007年1月 2日 (火)

新年快樂

明けましておめでとうございます。

本ブログもいよいよ今年で3年目に突入、まだまだネタは尽きません。

2007年は従来のコラムに加えて、少し読みごたえのある長編の連載、また琉球の歴史そのものだけでなく、琉球をとりまく「アジアの海の世界」の話など、新しい試みを行なっていきたいと考えています。

今年もどうぞよろしくお願いします。

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