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2006年12月13日 (水)

クニの頭とシマの尻

地名には、それを名づけた人たちの思想やその時代を生きた人々の感覚など、さまざまな歴史情報が秘められています。

例えば沖縄を指して言うところの「南島」。この名称は沖縄が中心なのではなく、あくまでも北(ヤマト)からの視点で名づけられたものであることは明らかです。「南島」とはどこから見ての「南」なのか。沖縄からの立場では沖縄は「中心」であって、自らが「南」であることはありえないからです。

現在の沖縄の地名は、5~600年前の古琉球時代にさかのぼるものが数多くあります。沖縄島北部の「国頭(くにがみ)村」と南部の「島尻(しまじり)郡」。この地名が確認できる最古のものは600年前の記録です。国頭とは文字通り「クニの上(かみ)」。島尻は「シマの尻(しり)」を意味しています。

古琉球の人々は自分たちの住む世界を「世(よ)」と呼んでいました。琉球世界を支配する国王を琉球語で「世の主(よのぬし)」と言い、「世の主」の統治する王国の領域はまた「おきなは(沖縄)の天が下」とも称されています。そして南北にのびる沖縄島は、王都・首里を基点に「上下(かみ・しも)」という空間として把握され、沖縄島の最北部を「国上(くにがみ)」、最南部の地域を「下島尻(しもしまじり)」と読んだのです。

Cimg0372 ちなみに奄美地域は「おくと(奥渡)より上(かみ)」、先島地域は「みやこ(宮古)・やへま(八重山)」と呼ばれていました。「奥渡」とは沖縄島の最北端のことで(いまでも最北端の集落は“奥”と呼ばれています)、奄美全体を「それより上」として表現しています。

面白いのは、古琉球では北方を「上」、南方を「下」とみる観念があったことです。つまり北方(ヤマト?)に何らかの中心性を見出していたことがうかがえるのです。古琉球の歌謡集『おもろさうし』には、日本へ行くこと(やまと旅)を「のぼる」とも表現しています。

最近の研究では、現代沖縄人に直接つながる祖先は、北方のヤマトからやってきた人々が現地民と融合していったのではないかと言われています(こちらを参照)。独立国家の琉球王国が成立して以降、原初の記憶は薄れてもその観念は受け継がれて、地名として痕跡を残すことになったのではないでしょうか(念のため強調しておきますと、この事実をもって琉球王国を「日本国」の範囲だった、と主張する根拠にはできません)。

地名を読み解くと歴史が見える。みなさんも沖縄の地名について考えてみてはいかがでしょう。

【写真】は沖縄島最北端の遠景。ここが「奥渡」「国上」にあたる。クリックで拡大

参考文献:南島地名研究センター編『増補・改訂 地名を歩く』、高良倉吉『琉球王国の構造』

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