お風呂と琉球
日本人は風呂好きだとよく言われます。たしかに寒い季節にザブリと湯船に入って温まるのは気持ちのいいものですね。日本人の風呂好きは今に始まったことではありません。例えば面白いところでは、500年前の朝鮮の釜山には日本人の居留地(富山浦)があったのですが、この付近にあった東萊(トンネ)温泉に日本人たちがワンサカと出かけていき、彼らを運ぶため地元民と馬が始終かり出されて大変迷惑をしている、との記録があります。
一方、沖縄ではどうでしょうか。現在の沖縄には湯船がなく、シャワーだけ取り付けられている住宅がけっこうあります。亜熱帯地域の沖縄では熱いお湯につかる習慣はあまりなく、「湯船につかるよりシャワー」が沖縄の入浴の基本でしょう。気候条件にくわえてアメリカ統治時代の影響もあると思いますが、意外にも戦後の沖縄には数多くの銭湯があったようです(現在ではほとんど廃業して残っていません。こちら参照)。
王国時代にも共同浴場がありました。那覇西村の「湯屋」と呼ばれる場所です(今の真教寺付近)。戦前まで「湯屋の前(ゆーやーぬめー)」という地名が残っていました。この湯屋は、何と日本から渡来してきた上方(畿内方面)の人がつくったもの。時期も古琉球時代(中世)にさかのぼります。当時の那覇は数多くの日本人が居留していました。おそらくこの湯屋は彼らのためのものでしょう。日本人は、やはりどこにいても風呂に入らないと気がすまないようです。
しかし、当時の風呂はただの入浴施設ではありませんでした。中世の日本では、入浴は「斎戒沐浴(さいかいもくよく)」というような身を清める宗教行為でもありました。日本の寺院では浴室がつくられて儀式とともに入浴が行われ、また浴室がお坊さんたちの会合の場にもなっていました。琉球でも中世の日本から禅僧たちがさかんに渡航していたので、禅宗とともに入浴の文化が持ちこまれたのです。
1494年、京都の禅僧・芥隠(かいいん)和尚によって建立された円覚寺【写真。クリックで拡大】にも浴室があったようです。しかし建て替えや改修が繰り返されていくうちに、円覚寺に浴室はやがて無くなってしまいます。最近行なわれた円覚寺の調査でわかったのは、寺院建築は日本のような七堂伽藍をそなえているものの、当然あるべき浴室が無く、かわりに井戸があったこと。以前、発掘関係者の話を聞く機会がありましたが、「高温多湿の沖縄では熱い湯に入浴するよりも水浴びのほうが好まれ、井戸を七堂伽藍の浴室に見立てて使ったのではないか」とのことです。
沖縄では湯船よりもシャワー。この文化はけっこう王国時代からそうなのかもしれません。
参考文献:村井章介『中世倭人伝』、国立歴史民俗博物館編『中世寺院の姿とくらし―密教・禅僧・湯屋―』、沖縄県立埋蔵文化財センター編『円覚寺跡―遺構確認調査報告書―』
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コメント
と言う事は・・・
昔の沖縄庶民たちは井戸から水を汲んで浴びたのかもしれませんね。まさに、シャワー派?!
でも、今の時期は寒い。
寒い冬の時は、どうしてたんでしょう?
まさか、ずっと入らず?!
投稿: MU@沖縄 | 2006年12月20日 (水) 09:41
>MU@沖縄 さん
沖縄の庶民たちは基本的にカー(泉)での水浴びだったと思いますが、冬はたしかに寒そうです。どうしてたんでしょうね。
今でこそ沖縄でも蛇口をひねれば水が出てきますが、昔は水の確保に天水などにも頼っていて、豊富な水資源があったわけではないようです。
そういう状況では文字通り「湯水のごとく」水を使う風呂は普及してなかったように思います。
とはいえ厳密に調査したわけではないので、確かなことはちょっと僕にはわかりません。何かわかりましたらまたおしらせしたいと思います。
投稿: とらひこ | 2006年12月22日 (金) 13:46
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投稿: riko | 2013年3月 7日 (木) 06:34
>rikoさん
「ワケがあり、平仮名が打てないのですが、この浴場は銭湯みたいものでしょうか。銭湯だった場合、小さい男の子は何湯に入っていたんですか。料金はいくらですか。いつ頃から入られていたんですか。教えてください」
ですね。
銭湯に関する史料は少ないですが、畿内方面のヒトが湯屋を建てたということは、中世(500年前頃)までさかのぼると考えられます。ただ詳しいことはわからず、料金や子供の扱いがどうだったかまでは史料に記されていないのでわかりません。
投稿: とらひこ | 2013年3月15日 (金) 21:34