石垣島の朝鮮語通訳
琉球と朝鮮―。両国は中国(明・清朝)の朝貢国であることはよく知られた事実ですが、お互いの交流の歴史について知っている人はあまり多くないと思います。琉球と朝鮮との交流は、実はそれほど活発だったわけではありませんでした。
中世(古琉球時代)には琉球から朝鮮に外交使節が派遣されて直接的な交流がありましたが、朝鮮側からの積極的な働きかけは見られず、しかも琉球使節のほとんどは日本の博多商人に外交業務を委託するかたちで行われていました。やがて近世(江戸時代)に入ると両者の交流は、朝貢でおもむいた中国・北京の第三国経由で行われるかたちになっていました。
このように一見すると疎遠に見える両者の間がらなのですが、関わりは皆無だったのではありません。みなさんは近世の石垣島に朝鮮語通訳がいた事実はご存じでしょうか。通訳の名前は伊志嶺仁屋英叙(いしみね・にやー・えいじょ)。仁屋とはランクを表す称号で、低位の官人のことです。石垣島というと沖縄島よりさらに南で、中国大陸や台湾にずっと近い先島諸島に位置します。当然、朝鮮ははるか彼方です。朝鮮と全く関係なさそうなこの島に、どうして朝鮮語通訳がいたのでしょうか。
国家レベルで直接的な交流はなくなったものの、民間においてははからずも両者が接触する場合がありました。それが漂着民です。琉球諸島には嵐に遭った朝鮮の船がしばしば流れ着ていました。琉球王府は彼らを手厚く保護し、中国経由で彼らを本国に送り返しましたが、その際の対処に当たったのが朝鮮語通訳だったわけです。
英叙はもともと中国語通訳として、石垣島に漂着した中国人と交渉する仕事をしていました。1832と1833年、石垣島に朝鮮人が漂着します。現場に駆けつけた英叙は中国語で話しかけますが全く通じません。当初は中国人が漂着したとの情報で、英叙が派遣されたのです。相手が朝鮮人と判明したものの、この時石垣島には朝鮮語がわかる人間は一人もいませんでした。英叙は身振り手振りや筆談で何とか彼らとコミュニケーションをとろうとしますが、うまくいきません。漂着朝鮮人は英叙に付き添われて沖縄島まで送られます。
これをきっかけとして英叙は朝鮮語を学ぶことをこころざします。上から命令されるわけでもなく、自ら進んで朝鮮語通訳となる道をめざしたのです。漂着民とともに向かった沖縄島の泊村には、朝鮮語を話せる佐久本筑登之親雲上(さくもと・ちくどぅんぺーちん)がいました。当時、泊村は漂着民の収容センターがあり(泊に外人墓地があるのはこのためです)、ここにはわずかながら朝鮮語通訳がいたのです。英叙は佐久本について朝鮮語のレッスンを受けました。沖縄での滞在費用は全て自腹。彼は相当な熱意をもって朝鮮語の習得につとめていたにちがいありません。
1年あまりの後、英叙は見事に師匠から修了証をもらって石垣島に帰ります。やがて嵐で朝鮮人の船が与那国島に漂着しますが、この時、英叙は石垣島から与那国島まで出向いて彼らを保護し、沖縄島の泊村の収容センターまで護送しています。先島諸島でたった一人の朝鮮語通訳は、朝鮮漂着民の保護に大活躍することになるのです。
なぜ英叙はわざわざ朝鮮語通訳となったのでしょうか。琉球にはまれだった朝鮮語通訳という特殊な技能を活かして、任官を有利に進めようとしたことも理由のひとつです。しかしプライドを持ってやってきた自分の仕事が朝鮮漂着民たちに全く通用しなかったという苦い体験が、そのきっかけにあることは間違いないでしょう。彼はそのくやしさをバネにして、ついに朝鮮語通訳となったのではないでしょうか。おだやかな南の島に住む人々は、ノホホンと「テーゲー(適当)」に暮していただけでは決してなかったのです。
参考文献:松原孝俊「琉球の朝鮮語通詞と朝鮮の琉球語通詞」(『歴代宝案研究』8号)、渡辺美季「近世琉球における外国人漂着民収容センターとしての泊村」(『第四回沖縄研究国際シンポジウム・ヨーロッパ大会』)
※琉球王の「朝鮮系倭寇」出自説については【こちら】と【こちら】参照
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コメント
本当に貴重な情報ありがとうございました!
投稿: 百済大王 | 2011年11月 7日 (月) 17:41
>百済大王さん
いえいえ、どういたしまして。
よかったら、またのぞきにきてください。
投稿: とらひこ | 2011年11月 9日 (水) 22:57