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2006年11月29日 (水)

「目からウロコ」単行本、もうすぐです!

単行本版「目からウロコの琉球・沖縄史」、刊行にむけて着々と作業が進んでいます。単行本はブログのコラムに書き下ろしやイラストを追加!今回はその内容をちょっとだけ紹介します。

◆「目からウロコ」特製!最新版すぐわかる琉球の歴史
「琉球・沖縄」という地域は、外の世界とどのように関わりながら自らを形成していったか。これまでの教科書や入門書で紹介されている沖縄の歴史をくつがえす新たな歴史観!最新の研究成果をもとに、南西諸島での人々の営みの始まりから琉球王国の滅亡までを「歴史の流れ」としてとらえ、わかりやすい文章で解説します。「沖縄の歴史ってそもそもよく知らない」「もっとくわしく沖縄の歴史の全体像をカンタンに知りたい」という方、これまで出された沖縄の歴史本の中でもっとも新しく、もっとも面白いものがこの本ですよ!

◆500年前の沖縄移住ブーム ―那覇にあった「日本人町」
「沖縄移住ブーム」って、実は500年前にもあったってご存じですか?最近の研究で、那覇に「日本人町」があった事実が“発見”されました。那覇の「日本人町」の実態とは?500年前の彼らヤマトンチュ(日本人)は琉球社会でどのような役割をはたしていたのか?那覇の「日本人町」の“発見”によって沖縄の歴史、さらには日本の歴史教科書も大きく書き変えられます。歴史学の最前線の研究を、いち早くダイレクトに読者の皆さまにお届けします!

◆武器のない国琉球?
「琉球は武器のない平和な国だった。尚真王は世界に先がけて非武装国家宣言をした」…これって本当なの?いえ、真相は全くちがいます。実は、琉球王国は尚真王の時代に武器を廃止するどころか強力な軍隊を完成させていた!数千人の軍勢で薩摩に立ち向かう琉球王国軍。フォース(霊力)で敵を倒す、武装神女(ノロ)。こんな戦争見たことない!また、「琉球非武装説」が広まった背景とは?琉球史の根幹をゆるがす新たな事実!これはもう単なる歴史の紹介じゃない。沖縄そのものの見方が180度変わってしまうのです。「目からウロコが落ちる」、ここにきわまれり。

この話の続きは単行本で。くわしい解説はここではしませんのでご了承くださいませ。

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2006年11月21日 (火)

激烈!琉球の受験事情

王国時代の試験問題をみてきましたが、受験事情はどのようなものになっていたのでしょうか。

まず前回見た「科(こう)」。この試験は1次と2次からなっていて、先に紹介したような問題が各試験につき1問ずつ出題されます。内容は道徳問題と時事問題からなっていました。「科」は王国の士族全員が受験したのではなく、比較的身分の低い士族たちが対象でした。当時の社会は当然のことながら身分制の社会。下級士族がいくら努力したところで三司官(大臣)になれるわけではありませんでしたが、それ相応の地位まで昇ることは可能でした。

Photo_6 琉球王国の学校制度は次のようになっています【画像・クリックで拡大】。学校は都市部の首里・那覇に限定されていました。これは士族の住む場所が基本的に都市部に限定されていたからです。初等教育は村学校(今の小学校から中学校に相当)で行われ、次に平等(ひら)学校(今の高校に相当)に進学。平等(ひら)とは首里の行政区画のことで、首里の3つの平等にそれぞれ置かれました。那覇では村学校が初等部と中等部に分かれて一貫教育を行っていました。

平等学校を卒業すると、ここから身分ごとに分かれていきます。身分の高い家の者と、推薦された一部の一般士族は最高学府の国学(今の大学に相当)に進学して徹底したエリート教育を受け、キャリア官僚のコースに進んでいきます。その他の平等学校の生徒はそのまま王府の一般職に就くことができますが、一方で「科」を受験して出世する道も残されていました。そのため多くの一般士族たちは「科」に合格すべく猛烈な勉学に励んだのです。「科」には様々なものがあったようですが、圧倒的に人気があったのは文筆科。合格すれば評定所(今でいう内閣)の書記官になり、さらに出世の階段を昇ることができました。

この「科」ですが、文筆科の合格倍率は何と最高600倍!現代の東大入試や国家1種試験、司法試験より高い倍率です。それに受験する資格は、毎月行われる平等学校の模試で40番以内に入った者だけ。学校での普段の成績が良くなければ受験すら許されなかったのです。受験者も現役生だけでなく、王府の一般職で働きながら入試に挑戦する浪人生もたくさんいました。なかには39才でようやく合格した人もいます。

しかし、試験に合格したからといっても安泰ではありませんでした。王府の仕事はポイント制になっていて、働き続けて功績ポイントを貯めないと高い身分の士族でも次第にランクを落とされてしまいました。親がエライからといって遊んでいると、ついにはヒラ士族になってしまうのです。

このように琉球王国では徹底した学問への取り組みが行われており、当然ながら現代の「ゆとり教育」も学力低下の問題も存在していませんでした。彼ら琉球王国の受験生が現代沖縄にタイムスリップしてきて勉強すれば、もしかしたら沖縄県内から東大現役合格生を毎年50名出すぐらいの力を発揮したかもしれませんね。かつての琉球王国はただ何となく存在していたのではなく、彼らのような王国士族たちの血のにじむような努力によって支えられていたのです。さて、現代の沖縄にはこの「伝統」は受け継がれているのでしょうか…

参考文献:田名真之「平等学校所と科試」(高良倉吉・豊見山和行・真栄平房昭編『新しい琉球史像』)

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2006年11月15日 (水)

王国の試験問題・解答

それでは前回の試験問題の解答です。解答例は実際の試験で合格した人たちの答案。若干、意訳してあります。

【問1・解答例】
私が思いますに、琉球が薩摩と通交していることが中国に知られては面倒なことになります。常日ごろでも薩摩と琉球の関係を中国人は疑っていろいろ尋ねてきており、何とか言い訳をして疑いを晴らしているような状態です。十文字マークが薩摩の紋であることを、長崎に来ている中国人でよく知っている者もいるのではないでしょうか。彼らに言い訳したとしても、それは通じないはずです。

それに我々が福州で何とか隠しとおして反物を注文しても、注文した品が絹織物の産地・蘇州で調達されればおのずとウワサは広まってしまい、もしも薩摩の紋のことが発覚して、琉球が日本に従属していることが清朝政府の耳に入れば、我が国は面目を失い、朝貢貿易が断絶する原因にもなるのではないかと、恐れながらこのようなご命令に驚いております。

とにかく十文字マーク入り反物の調達は可能なのですが、以上のようにいろいろ支障があって実際に調達するのは難しいので、どのよう対処すればいいのか、このことについてご指示をたまわりたく存じます。(合格者1位・佐久本筑登之親雲上の答案)

※コメント…行政で実際に起こりうることを想定した時事問題。受験者の実戦力が求められます。

【問2・解答例】
今回、講談師匠の交代(1名)につき私と父が採用試験に受験したところ、私が1番で父が2番となりました。恐れながら申し上げますが、父は長年、この試験にチャレンジしてきましたがいまだに合格することができません。私は近頃、父を気の毒に思っていましたところ、今回も私より劣っていたようです。

もし試験の結果で採用されるなら父より私が先に選ばれてしまい、思いもかけなく出世することは幸運だと思いますが、いま出世の階段を昇る役職を願い、父より早く出世してしまうのは私の本意ではありません。そのうえ本来の学力については、とりわけ父のほうが優れているのですが、試験というものはおおかたその時々のカン次第でありまして、たまたま子より順位が下だったことはかわいそうなので、何とぞ今回は父のほうを採用してくださいますようお願いします。

もちろんこれが赤の他人ならこのようなお願いはいたしませんが、これが親子の間であるため黙っていられず、恐れをかえりみずにお願いした次第です。どうかこの件について重ね重ねよろしくお命じくださいますよう、お頼みいたします。(合格者2位・比嘉筑登之の答案)

※コメント…儒教的道徳をみる問題。試験結果よりも親孝行が大事なようです。

【問3・解答例】
世間に対して酒を飲むことは以前より法令でほどほどにせよと通達してあったのだが、近頃これが守られず、みな酒を飲みすぎる傾向があるようだ。私欲にふけることは災いの本とは言うものの、その多くは自身の恥になるまでのことなのだが、飲みすぎは精神を乱すものだから自然と行いはムチャクチャになり、家庭の雰囲気だけでなく社会の風俗までも乱すものである。さらには酔った最中に不始末を働いて犯罪を犯し、家族までも迷惑をかけてしまうのはまことに馬鹿らしい。

身分を問わず酒の飲みすぎには特に心をいさめるべきである。もちろん人間、心の慎みは肝心であるが、酒を飲みすぎれば、どんなマジメな者でも正気を失ってしまう。「心を慎むのに酒をひかえることを第一とせよ」と先人の教えにもあるので、これらをよく理解し、みだりに酒を飲むことはかたくいましめよ。このことを皆に申し渡す。(合格者1位・喜納親雲上の答案)

※コメント…昔からウチナーンチュ(沖縄人)は酒飲みで、王府も頭を痛めていたようです。

参考文献:『那覇市史』資料篇1巻11・琉球資料

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2006年11月 8日 (水)

解いてみよう!王国の試験問題

高校の必修科目履修問題で教育現場が騒がしいですね。受験最優先の風潮が今回の騒動の原因のひとつとなったようですが、琉球社会でも学問や受験は非常に重視されていました。受験に合格するかどうかで後の出世が決まったのです。その一端をみてみましょう。

次の問題は「科(こう)」と呼ばれた、いわば琉球王国の国家公務員試験。内容は論述問題です。皆さんも試しに解いてみてください。

以下の文を読み、解答せよ。

【問1】このたび、薩摩藩より中国で反物(織物)を仕立てよとのご命令があり、その反物には島津家の紋である十文字のマークを入れよとの注文が来ている。しかし中国で薩摩のマークのついたものを琉球が注文してはいろいろ支障が出てくる(*注)。これらの注文が不都合である理由を挙げて、中国に滞在する役人の立場から、王府に対して指示をあおぐ内容の文章を書け(1805年度試験)。

*注:当時、琉球は薩摩に支配されていることを中国に隠していたから、バレてはまずかった。

【問2】講談師匠(教師)の交代につき父と子が採用試験を受けたところ、子が1番となり父が2番の試験結果となってしまった。あなたは子供の立場で、「父より先に師匠に採用されるのは私の望みではないので、父を合格にしてください」と願い出る内容の文章を書け(1806年度試験)。

【問3】人間の欲は多いのだが、とくに酒に対するいましめは念を入れなくてはならないので、酒を飲みすぎることの害をひとつひとつ述べ、これらを三司官(大臣)の立場から通達する文章を書け(1807年度試験)。

どうですか?解けましたか?簡単なように見えますが、好き勝手に思うままを書けばいいのではなく、解答は出題者である王府の意に沿うものでなくてはいけません。これができれば、みなさんは琉球王国の官僚の仲間入りです。解答は次回に。

参考文献:『那覇市史』資料篇1巻11・琉球資料

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2006年11月 2日 (木)

石垣島の朝鮮語通訳

琉球と朝鮮―。両国は中国(明・清朝)の朝貢国であることはよく知られた事実ですが、お互いの交流の歴史について知っている人はあまり多くないと思います。琉球と朝鮮との交流は、実はそれほど活発だったわけではありませんでした。

中世(古琉球時代)には琉球から朝鮮に外交使節が派遣されて直接的な交流がありましたが、朝鮮側からの積極的な働きかけは見られず、しかも琉球使節のほとんどは日本の博多商人に外交業務を委託するかたちで行われていました。やがて近世(江戸時代)に入ると両者の交流は、朝貢でおもむいた中国・北京の第三国経由で行われるかたちになっていました。

このように一見すると疎遠に見える両者の間がらなのですが、関わりは皆無だったのではありません。みなさんは近世の石垣島に朝鮮語通訳がいた事実はご存じでしょうか。通訳の名前は伊志嶺仁屋英叙(いしみね・にやー・えいじょ)。仁屋とはランクを表す称号で、低位の官人のことです。石垣島というと沖縄島よりさらに南で、中国大陸や台湾にずっと近い先島諸島に位置します。当然、朝鮮ははるか彼方です。朝鮮と全く関係なさそうなこの島に、どうして朝鮮語通訳がいたのでしょうか。

国家レベルで直接的な交流はなくなったものの、民間においてははからずも両者が接触する場合がありました。それが漂着民です。琉球諸島には嵐に遭った朝鮮の船がしばしば流れ着ていました。琉球王府は彼らを手厚く保護し、中国経由で彼らを本国に送り返しましたが、その際の対処に当たったのが朝鮮語通訳だったわけです。

英叙はもともと中国語通訳として、石垣島に漂着した中国人と交渉する仕事をしていました。1832と1833年、石垣島に朝鮮人が漂着します。現場に駆けつけた英叙は中国語で話しかけますが全く通じません。当初は中国人が漂着したとの情報で、英叙が派遣されたのです。相手が朝鮮人と判明したものの、この時石垣島には朝鮮語がわかる人間は一人もいませんでした。英叙は身振り手振りや筆談で何とか彼らとコミュニケーションをとろうとしますが、うまくいきません。漂着朝鮮人は英叙に付き添われて沖縄島まで送られます。

これをきっかけとして英叙は朝鮮語を学ぶことをこころざします。上から命令されるわけでもなく、自ら進んで朝鮮語通訳となる道をめざしたのです。漂着民とともに向かった沖縄島の泊村には、朝鮮語を話せる佐久本筑登之親雲上(さくもと・ちくどぅんぺーちん)がいました。当時、泊村は漂着民の収容センターがあり(泊に外人墓地があるのはこのためです)、ここにはわずかながら朝鮮語通訳がいたのです。英叙は佐久本について朝鮮語のレッスンを受けました。沖縄での滞在費用は全て自腹。彼は相当な熱意をもって朝鮮語の習得につとめていたにちがいありません。

1年あまりの後、英叙は見事に師匠から修了証をもらって石垣島に帰ります。やがて嵐で朝鮮人の船が与那国島に漂着しますが、この時、英叙は石垣島から与那国島まで出向いて彼らを保護し、沖縄島の泊村の収容センターまで護送しています。先島諸島でたった一人の朝鮮語通訳は、朝鮮漂着民の保護に大活躍することになるのです。

なぜ英叙はわざわざ朝鮮語通訳となったのでしょうか。琉球にはまれだった朝鮮語通訳という特殊な技能を活かして、任官を有利に進めようとしたことも理由のひとつです。しかしプライドを持ってやってきた自分の仕事が朝鮮漂着民たちに全く通用しなかったという苦い体験が、そのきっかけにあることは間違いないでしょう。彼はそのくやしさをバネにして、ついに朝鮮語通訳となったのではないでしょうか。おだやかな南の島に住む人々は、ノホホンと「テーゲー(適当)」に暮していただけでは決してなかったのです。

参考文献:松原孝俊「琉球の朝鮮語通詞と朝鮮の琉球語通詞」(『歴代宝案研究』8号)、渡辺美季「近世琉球における外国人漂着民収容センターとしての泊村」(『第四回沖縄研究国際シンポジウム・ヨーロッパ大会』)

※琉球王の「朝鮮系倭寇」出自説については【こちら】と【こちら】参照

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