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2006年10月25日 (水)

琉球使節は「異国風」を強制された?

みなさんは「江戸上(のぼ)り」をご存じでしょうか。江戸時代、日本の幕藩体制に組み込まれた琉球が、国王や徳川将軍の即位に際して江戸に使者を派遣し、従属関係を確認するイベントのことです。

琉球の使節団は王子を正使として、百数十人が薩摩藩士とともに水路・陸路から江戸城に向かいます。その道中、琉球の使者たちは薩摩藩から「異国風」の中国服を着ることを強制され、沖縄の人々は日本人とはちがうという差別意識を本土の人々に植え付けることになった、とこれまで言われてきました。この説は本当なのでしょうか。

まず中国服についてですが、実は琉球の正装はもともと中国の冠服でした(こちらを参照)。なので、琉球では外交儀礼の場で中国冠服を着用することは通常の作法だったのです。薩摩に征服される以前の1573年(天正3年。戦国時代)、薩摩に派遣された琉球の使節団は「唐衣裳」を着て行列し、中国風の音楽を演奏しています。つまり琉球人に「正装をしてこい」といえば、強制されなくても中国服を着てくるわけです。

薩摩藩が江戸上りの際、中国風をせよと通達していたことは確かです。その背景には、「異国」を従えていることをアピールすることで、薩摩藩のみならず、幕府の権威を高めることがあったことは間違いありません。しかし、中国風にせよと通達された対象は、何と旗や槍などの儀仗や道具類だけで、服装に関しては全く規定はありません。現に江戸上りの琉球使節を描いた絵図には、琉装をする琉球人もちゃんといます(こちら)。身分の高い使節はみな中国冠服が正装でしたが、ランクの低い官人は普段どおりの琉装だったようです(さらに場所によっては全員琉装の場合もあります)。

このように、江戸上りの琉球の使者に対して薩摩藩が中国風(異国風)の服装を強制したという説は間違いであることがわかります。実際には「強制」ではなく、もともとの中国風をより「強調」したというのが真相なのです。

なぜこのような説が流布することになったのでしょうか。そもそも「異国風を強制された」という考え自体がおかしくはないでしょうか?琉球は江戸時代の日本にとって「異国」です。「異国」に対して「異国風」を強制するということはトンチンカンな行為です。

実は、この説が唱えられた背景には復帰以前の沖縄と日本の関係があります。この「異国風」強制説には、「沖縄が異国であることはおかしい」という観念が根底にあるのです。

1952年、サンフランシスコ平和条約によって、沖縄は一方的に日本から切り離されて米軍統治下に置かれ、人権無視の様々な弾圧を受けていました。アメリカ当局は自らの支配のもとで安定的に沖縄を統治するため「日本」と「沖縄」の分断政策に乗り出し、「琉球」をより強調しはじめます(琉球政府・琉球大学・琉米文化会館などなど…)。対する沖縄の人々はアメリカ統治からの解放を日本復帰に見出し、島をあげて「祖国」復帰運動を強烈に進めていきます。

「異国風」強制説は、この説が唱えられた復帰以前の「沖縄は日本とひとつだ、“祖国”に帰るべきだ」という時代の風潮に強く影響されています。当時の研究者たちもこの考え方から自由ではなく、「江戸上りの差別的な異国風強制は、沖縄を異民族視する印象を本土の人々に与え、この影響は日本と沖縄が分離されている現代(復帰前の時代)まで続いているのだ」と主張したのです。

歴史を分析する研究者も、また自分たちの生きる時代から完全に自由になれるわけではないのです。言ってみれば歴史家が唱えた説も、その時代の状況を知るうえで大切な「歴史の一部」なんですね。

参考文献:紙屋敦之『大君外交と東アジア』、豊見山和行編『日本の時代史18』

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コメント

江戸上りの記事に便乗させていただきました(^^:)ゞ
東海道や皇居を見ると、「江戸上りの使者はこんな遠いところまで来たんだなあ」とよく感慨にふけっています。
北京はもっと遠いですが(笑)

サイトマップ、とても便利ですね。

投稿: 茶太郎 | 2006年10月30日 (月) 00:16

>茶太郎さん
関連記事拝読しました。鹿鳴館ってあんなとこにあったんですね。遠い異郷の地にたどりついた琉球人たちはどんな心境だったんでしょうね。

江戸上りの琉球使節は気候が合わないせいかけっこう道中で死んでます。命がけのお勤めだったようです。

投稿: とらひこ | 2006年10月31日 (火) 00:48

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