« 王様の朝ごはん | トップページ | 奄美に古代日本の拠点発見?(2) »

2006年9月17日 (日)

奄美に古代日本の拠点発見?(1)

Photo_4 今月10日、「沖縄タイムス」紙上で喜界島での遺跡発見が大々的に報じられました。喜界島の城久(ぐすく)遺跡群でおよそ1000年前の大規模な建物跡と、中国産の高級陶磁器やヤマト産の土師器(はじき)などが多数発見されたのです。この遺跡は日本国家が置いた「南島」経営の拠点で、大宰府(だざいふ)の出先機関のようなものだった可能性が指摘されています。これが本当だとすると、平安時代頃の奄美はヤマト朝廷の傘下にあり、琉球諸島にもその影響を及ぼしていたことになります。この城久遺跡群の存在は、以前より専門家の間で注目されていました。今回はこれまでの研究をもとに、その歴史的意義について説明したいと思います(【画像】は南西諸島地図。クリックで拡大)。

城久遺跡群をはじめとした奄美諸島の遺跡調査で次第に明らかになっていることは、沖縄島を中心とした「琉球王国」が成立する以前、かつて奄美地域が琉球諸島の文化・交易の中心地だったのではないかということです。

奄美諸島では古代のヤマト産の外来物が多く出土している場所があります。それは奄美大島の北部と喜界島です。ヤマト産のモノはとくにこの場所に集中して見つかっています。さらに奄美大島の北部では、交易品として大量のヤコウガイ(盃や漆器細工の原料となる)を集めて加工していた6、7世紀頃の遺跡(小湊フワガネク遺跡群)も発見されています。これとほぼ同時期、『日本書紀』をはじめとした古代日本の記録に南島人たちが朝貢した記事が知られています。また九州の大宰府からも“奄美島”からの物品を納めたとみられる木簡が見つかっています。

これらの事実から浮かび上がるのは、6、7世紀頃(日本史でいうと飛鳥時代頃)、奄美大島北部と喜界島を中心に組織化された独自の政治勢力が登場し、彼らがヤマトの古代国家と「朝貢」関係を結んで交易活動を行っていたという姿です。この背景には南島の特産品(ヤコウガイ・赤木など)がヤマトの中央で珍重され、これらを調達するためヤマトから南島への働きかけがあったとみられます。ヤマトからの南島産物の需要が高まり、この北からの動きに刺激されるかたちで奄美諸島の「文明化」が進んだのです。

ただ注意しなくてはいけないのは、当時のヤマトにとっての「南島」とは、琉球諸島の全体を指していなかったとみられることです。ひんぱんに「朝貢」してきた南島人は主に種子島・屋久島の人々で、次に奄美地域とトカラ列島が多く、沖縄・先島地域とされる球美(久米島?)・信覚(石垣?)は何とたったの1度だけ。つまり、ヤマト朝廷にとっての「南島」とは南九州の大隅諸島から奄美諸島までを指し、沖縄・先島地域はその範囲外にあったのです。

沖縄地域へのヤマトの影響は奄美をワンクッションおくかたちで及んでいたようです。奄美諸島で作られた土器の形式は北のヤマトの影響が強く見られるのに対し、沖縄諸島では以前からヤマトの影響を全く受けずに独自の土器文化を保ち続けていました。それが奄美での「文明化」が進んではじめて奄美の土器の形式を取り入れた土器が登場します。ヤマトの影響を強く受けた奄美が発信地となって、周辺地域の沖縄にもその文化が伝わったということです。この頃の奄美は琉球諸島のなかでも最先端の地域だったのです。

参考文献:池田榮史「琉球王国成立以前―奄美諸島の位置付けをめぐって」(科研報告書『前近代の東アジア海域における唐物と南蛮物の交易とその意義』)

↓ランキング投票よろしくお願いします(緑のボタンをクリック)

banner

|

« 王様の朝ごはん | トップページ | 奄美に古代日本の拠点発見?(2) »

コメント

初めまして、喜界島人です、大和ぬ時代があったかもしれないのは、さみしいですね今もアンマーたーは奄美から上のひとを大和っちゅといいます、島ちゅのとぅじむらいようーといい
、野球は沖縄を応援してます、顔が濃く、体毛が濃いのは同じで、人種的には太古は一緒だったのですかね?昔オバーに聞いた事があるのですが、糸満漁師が喜界に来ていたそうです、今沖縄や島の歴史に興味が出てきてるので、又拝見させて頂きます。

投稿: 島坊 | 2006年9月17日 (日) 21:56

>島坊さん
はじめまして。訪問ありがとうございます。喜界島には1度行ったことがあります。古い石垣の家々を見ながら散策しました。

喜界島をふくめた奄美は様々な歴史を体験して現在の姿があると思います。それは悲しむべきことではなく、むしろ奄美の持つ強みだと思いますよ。

ちなみに沖縄の人種的なことについては本ブログの記事「沖縄人=アイヌ人=縄文人??」をご参照ください。

http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2006/03/post_7d50.html

投稿: とらひこ | 2006年9月18日 (月) 16:30

これは驚きですね。石上先生の意見も聞いてみたいですね。

投稿: 御座候 | 2006年9月29日 (金) 22:04

>御座候さん
これだけの遺跡が出てくるとは、正直予想していませんでした。今度は石上先生をはじめとした文献からの奄美研究が、この発見をふまえて新たな奄美諸島史像を描く出番だと思います。

投稿: とらひこ | 2006年10月 1日 (日) 13:41

こんにちは。奄美出身の者です。特に、6、7世紀頃の記述はについて、大変、興味深く読ませて戴きました。
一般的に、奄美の方言はとても古い言葉だといわれています。個人的にもそのように思います。たとえば、平家物語に登場する「鬼界ヶ島」はヤコウ貝や子安貝が貴重な交易品だった頃には「貴貝ヶ島」の意味ではないかとさえ思います。
「貝」は、方言的には「ニャー」と奄美大島北部では呼びます。つまり、「喜界」を「キャー」と方言では呼びますが、「貴貝」=「キイ」+「ニャー」⇒「キヤー」と変化したのではないかと思うのです。
「方言」が古い言葉なら、「地名」にも古い呼び方が残されたと思います。奄美大島北部には「赤木名」という地名があります。方言では「ハッキナ」と呼ばれています。「ハ」は「赤」を意味していますが、「赤木」は南島の特産品としての「赤木」かも知れませんが、「ニャー」が「ナ」に変化して「赤貴貝(名)」と考えても無理な推測ではないと思います。このように、考えると「名瀬」は「貝(ニャー⇒ナ)瀬」と想像も膨らみます。奄美、沖縄に多い「キナ」(木名、喜納、等)のついた地名も「貴貝(キナ)」かもしれません。
「奄美方言」は「城久遺跡」の頃の言葉かも知れません。奄美でも沖縄でも「キナ」の地名のように焼畑農業と関連づけるには無理があるように思います。奄美の集落は入り江ごとに点在しています。貝との関連が自然のように思います。

投稿: ヤコウ貝 | 2014年10月25日 (土) 18:43

>ヤコウ貝さん
訪問ありがとうございます。

かつて呼ばれていた「貴界島」という表記、ヤコウ貝などをはじめとした豊富な南島産物のある場所という意味が込められていたのが、やがて中世日本の世界観が影響し「鬼界」の表記に変わった、と研究でも指摘されていますね。

当時の主要な産物の貝をイメージしたことは充分考えられると思います。奄美諸島の歴史、非常に重要なだと感じます。

投稿: とらひこ | 2014年10月28日 (火) 16:23

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/98518/11928336

この記事へのトラックバック一覧です: 奄美に古代日本の拠点発見?(1):

« 王様の朝ごはん | トップページ | 奄美に古代日本の拠点発見?(2) »