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2006年9月 8日 (金)

王様の朝ごはん

琉球の国王は日常、どのような食事をとっていたのでしょうか。沖縄(琉球)料理といえば豚肉料理やチャンプルー料理をまず思い浮かべると思います。あるいは琉球は中国と交流があったから、王様も中華料理に近いものを食べていたと考える方も多いのではないでしょうか。

実は王国が滅びる7年前の1872年(明治5)に書かれた、最後の国王尚泰が食べた日常食の献立が残されています。王様にとってのご馳走ではなく、普段食べている食事というところが非常におもしろいところです。この献立は首里城の料理長だった家に伝わっていたもので、メニューは朝・昼・晩の三食ともあるのですが、ここでは朝食の献立を紹介したいと思います。

王様の朝食(一汁五菜) 

  • 酢をつけた魚(刺身?)、色のり ※色のり…海苔の一種?不明。
  • あられ魚・若菜・シイタケ入りの汁 ※あられ魚…魚肉をサイの目に細かく切ったもの。
  • 香の物(結びタクワン、塩もみ大根) ※結びタクワン…結び昆布のようにしたタクワン。
  • ご飯
  • 煮物、キスのあぶり焼き、蒸し麩(ふ)、レンコン
  • あいなめ、島田湯葉、糸三つ葉 ※糸三つ葉…三つ葉を糸状に細かく切ったもの。
  • 菜のお浸しカラスザンショウがけ
  • 魚の串焼き(てり焼き)

何ともおいしそうなメニューですね。王様は普段こんな料理を食べていたのです。この料理を見てわかることは、今の沖縄料理をうかがわせるようなものは全くないという事実です。この献立は一種のマニュアルのようなもので、特定の日のメニューをそのまま記録したというわけではないようですが、王様の食事はほとんど和食に近いものだったことがわかります。実は王様の日常食だけでなく、首里城などの行事の際に出される料理はそのほとんどが日本料理でした。

じゃあ、みんなが知ってる琉球料理は一体何なんだ!?と思うかもしれません。もちろん琉球には中華料理の影響が全くなかったわけではありません。中華料理は中国から国王を任命するための使者(冊封使)が来た時に、彼らを歓待する料理として出されました(そのメニューも現在残されています)。これらの中華系料理、豚肉料理は中国系移民の住む久米村を中心に普及していましたが、あくまでも琉球の士族たちが公的行事の際に食べる料理は日本料理が原則だったようです。王朝の料理人たちは薩摩へ修行に行き、そこで日本料理を学んで免許を受けた者が数多くいました。

身分ごとに食べる料理がちがっていたことも考慮しなくてはならないでしょう。沖縄料理はアブラっこく、味くーたー(味が濃い)で「まずい」という声もたまに聞きますが(僕は好きですが)、現在の一般的な沖縄料理は主に民間で食べられていた料理です(しかも近代以降に普及したもの)。庶民は肉体労働をしていたためアブラ分や塩分の多い食事が中心でしたが、王族や士族はさほどカラダを動かさなかったので、あっさり・うす味の料理を食べていたのです。

実は、正統な琉球王朝料理というものは現在、部分的にしか伝えられていません。王朝料理を総体として知る人間は王国が滅亡して、やがて姿を消してしまったのです。尚泰王の子で“グルメ男爵”として知られる尚順男爵は「琉球料理の堕落」と題するエッセイを書いて、「もはや琉球料理の真味を知った人はほとんど絶滅したに近い」と述べています。

ゴーヤーチャンプルーやラフテーが沖縄料理の全てだと思っていませんか。決してそんなことはありません。かつて王国時代に食べられていた“琉球料理”は様々なバリエーションがあったことを、この王様の献立はおしえてくれます。

参考文献:池宮正治「伝・尚泰王の御献立」(『首里城研究』6号)、『松山御殿物語』刊行会編『松山御殿物語』

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コメント

「色のり」とは、どんなものでしょう?

投稿: MM | 2006年9月 8日 (金) 14:34

>MMさん
僕は食べるのが専門で料理についてはくわしくわからないのですが、おそらく海苔の一種ではないかと考えました。イメージとしては、酢をかけた刺身に添えられたという感じです。でも確証はありません。あまり答えになってなくてすみません。

投稿: とらひこ | 2006年9月 8日 (金) 22:57

結構、ヘルシーですねえ。
昔の王様の食事って。

そういえば、昔の琉球料理には、身分によって違いがあることは
知ってましたが。
宮殿料理(いわゆる、中国人使者や薩摩役人をもてなす)
庶民料理(芋類が主食、ボリュームたっぷりの料理)
庶民料理は現在の、いわゆる家庭料理にあたるかな。

投稿: MU@沖縄 | 2006年9月 9日 (土) 08:43

>MU@沖縄さん
そうですね。庶民は芋なんかをけっこう食べてたようです。今のようにモノがたくさん手に入れられるわけではありませんでしたから、豚肉やヤギ肉にしても行事など年に数回とかしか食べれなかったようですよ。

今の沖縄の家庭料理は、明治以降、商業の街だった那覇で発展した料理がもとになっているようです。

投稿: とらひこ | 2006年9月10日 (日) 10:04

馬氏の元祖は奄美の首長でした與湾大親の子ですが、妻子とともに首里に連れて来られたのですが、城内の大台所に料理人として仕えた「糠中城掟良當」です。多分後に王舅隣、王子の守役となり、死去の際は玉稜近くに墓を賜ります。国王の食事など腕を振るうのでしょうね。ちなみに與湾の先祖は今帰仁城の北山監守今帰仁按司という説もありますね。いかがでしょうか?

投稿: 與湾 健 | 2009年9月 6日 (日) 14:36

>與湾健さん
以前、天久村の歴史を執筆しましたが、糠中城の旧宅についての記述がありましたね。近世でも先祖の地として馬氏に大事にされていたようです。

與湾大親の先祖についてはちょっと僕は詳しくありませんので、今帰仁按司との関連はわかりません。すみません。

投稿: とらひこ | 2009年9月15日 (火) 20:35

琉球の王様は公務以外の私的生活は和風で過ごす事が多かったんですね。日本料理には驚きました。(和中折衷料理?だと思ってました)。まえから疑問なのが現在の沖縄家庭料理の起源です。もしかして明治以降の比較的新しい時代では?「ちゃんぷるー」以外に「たしやー」「うぶしー」などがあり語源はなんでしょうね?「いりちー」は多分「炒り焼き」かと思いますが?また琉球には和菓子もあったようですが現在残ってない理由はなぜでしょうか?

投稿: ひで | 2010年6月 4日 (金) 01:06

しばらくです。天久村の中城掟の旧宅は初耳です。当初の墓所は玉御殿の下、今の一中健児の搭の上、見上げ森にあったようです。その後、天久あたりに移るのでしょうか。嘉手納町在の屋良城跡の説明版によれば、今帰仁按司の5男でしたか、屋良城の大川按司として即位した、とあり、その方が與湾大親の祖先なり、とありますよ。

投稿: 與湾 健 | 2011年4月25日 (月) 13:35

>與湾健さん
天久村の旧宅は浦添親方が尚元王の養父となるまで居住していたようです(「馬姓家譜」)。お墓についてや屋良グスクの説明についてはちょっとわかりません。どの記録にもとづいているんでしょうかね。

投稿: とらひこ | 2011年4月28日 (木) 22:28

どの文献があるのか、私も知りたいですね。今帰仁の資料館まで足運ぶのも大変ですからね。ありがとうございました。著書2本読みました。面白いですね。

投稿: 與湾 健 | 2011年4月29日 (金) 08:18

> 與湾健さん
拙著読んでくださりありがとうございます。

もし新たな事実がわかればブログで紹介しますね。

投稿: とらひこ | 2011年4月30日 (土) 12:32

  倭寇なども研究しているんですか、私の友人に熊本出身の男がおりますが、彼は村上水軍の末裔と称します。沖縄の倭寇との関連はありませんか?また海域史についても興味ありますね。私は色川史学の信奉者?ですが、沖縄の現代史学に民衆史学の視点はあるのでしょうか?
色川はかって安良城史学を首里士族のエリート史学と批判したことがありますが--。
 

投稿: 與湾 健 | 2011年5月 3日 (火) 08:38

> 與湾健さん
倭寇に関しては僕の専門分野の一つでもありますが、明確に倭寇との関連を示すものはそうありません。

琉球と日本との交流のなかで倭寇はほんの一部で、海商(ここに倭寇もふくまれます)、禅僧など民間宗教者、文化人、技術者、女性などあらゆる階層の人々が日本から流れて来て、港町の那覇に居住しています。古琉球の那覇には「日本人町」があったのです。詳しくは拙稿「古琉球・那覇の「倭人」居留地と環シナ海世界」(『史学雑誌』114-7、2005年)を参照してください。

安良城史学がエリート史観というのはちょっと疑問です。安良城氏はまず徹底した実証主義者であり、残された史料から分析するという性格上、当然王府の史料が多くなるわけです。民衆の歴史といった場合、史料が少ないので難しい面があります。

現在の琉球史研究は権力だけでなく庶民たちへの視点も意識していると思いますよ。

投稿: とらひこ | 2011年5月 3日 (火) 09:03

ありがとうございます。実は私事で恐縮ですが、私こと、
琉大史学科9期卒です。教員免許取りましたが、横道にはいりました。恩師も照屋善彦氏一人になりました。
 ご教示感謝します。

投稿: 與湾 健 | 2011年5月 4日 (水) 08:59

>與湾健さん
琉大史学科だったんですか!それでは先輩ですね。現在は国際言語文化学科というよくわからない改編で史学科はありませんが・・・

照屋先生は直接講義を受けたことはありませんが、学会などで何度がご一緒しました。

投稿: とらひこ | 2011年5月 8日 (日) 09:39

お知らせです!!
ベッテルハイム生誕200年記念講演会
     時*6月4日*土 午後2時
     所*浦添市前田*聖公会゛ヘッテルハイム.センタ      -*電話942-1101

     講師*照屋善彦、ジェンキンス、小野まさ子氏
     無料。

投稿: 與湾 健 | 2011年5月15日 (日) 08:18

>與湾健さん
情報ありがとうございます。

投稿: とらひこ | 2011年5月17日 (火) 23:45

お元気ですか?
 例の屋良城跡の案内板記事の出典分かりました。今帰仁文化センターによれば、島袋「伝説補遺 沖縄歴史」ということです。確認しました。
 「テンペスト」見ました。

投稿: 與湾健 | 2011年11月18日 (金) 16:32

>與湾健さん
どうもお久しぶりです。

情報ありがとうございました。図書館などに行った際には見てみますね。

テンペストも視聴ありがとうございます。映画版も来年1月から放映予定です。

投稿: とらひこ | 2011年11月19日 (土) 21:56

はじめまして。

糠中城の旧宅は、今でもあるのでしょうか?だとしたら、天久のどのあたりにあるのでしょうか?

また、とらひこ様が執筆された糠中城旧宅に関する記事はどこで見ることができるのか教えていただけないでしょうか?

投稿: Ichiro Suzuki | 2014年7月 4日 (金) 03:18

>Ichiro Suzukiさん
はじめまして。天久集落は戦後米軍基地内に入り、新都心の開発でかなり改変されているので、旧宅(小禄殿内)は現存していないと思います。

現在どのあたりかの比定は、僕のほうではやっていないので、ちょっとわかりません。しかし僕も執筆に参加した天久資産保存会編『天久誌』には戦前の集落の見とり図(220ページ)がありますので、そこから現在地を割り出すのは可能なはずです。

本は非売品ですが図書館などにあるはずなので、所蔵書検索してみてください。

投稿: とらひこ | 2014年7月 6日 (日) 19:15

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