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2006年9月21日 (木)

奄美に古代日本の拠点発見?(2)

奄美大島北部・喜界島の政治勢力とヤマトとの関係は、その後9、10世紀頃(平安時代頃)までは続いたようです。ヤマトでは南九州の島々を「キカイガシマ」あるいは「イオウガシマ」と呼ぶようになります。この名称は島そのものを指すだけでなく、「南島」全体の名称としても使われていました。当時の地理認識は今のように正確なものではなく、とくに現地に住んでいない人々(たとえば京都にいる貴族など)にとってはボンヤリとしたあいまいなものでした。

998年、奄美島人が九州を襲う事件が起こり、大宰府は「貴駕島(キカイガシマ)」に対して犯人を逮捕せよとの命令を発しています。このことから、この時期に大宰府が指揮する何らかの機関が「キカイガシマ」に設置されていたことがうかがえます。まだ特定されたわけではありませんが、今回報道された城久遺跡群の大規模建物の跡がこのヤマトの行政機関だった可能性はにわかに高まってきました。おそらくこの機関は交易品の調達を主な業務としていたとみられますが、記録が少ないこともあり、ヤマトの行政機関「キカイガシマ」と現地勢力が具体的にどのような政治的関係を築いていたのかは、よくわかっていません。

この頃には日本と宋(中国)との貿易の影響で、南島産物を調達するヤマトの民間商人の活動が活発となり、また徳之島で「カムィヤキ」と呼ばれる硬質の土器が大量生産され、先島までの琉球諸島全域に流通しはじめます。カムィヤキは中世日本や朝鮮半島の技術で作られた土器です。背後には北からの組織的な集団があって、彼らが琉球諸島の特産品を入手する代価とするために計画的にこれらの土器を生産したのではないか、と指摘されています。カムィヤキとともに長崎産の高級な石製ナベも流通するようになり、11世紀以降、奄美地域を中心とした交易のネットワークは琉球諸島全体に広がり、そのインパクトはその後の琉球社会を激変(農耕の開始や「按司」の登場など)させるきっかけになるのです。

中世の日本では、自らの領域を「東は外が浜(現在の青森県)、西は鬼界島」までと考えていました。ただし現代の国境のように明確な「線」で把握されていたわけではありません。当時の国境は「線」ではなく、ある地点がどちら側の国家にも属している(あるいはしない)というような、漠然としたグレーゾーンの「面」としての性格を持っていました。日本国の西の境界としての「鬼界島」は、主に薩南諸島、さらに奄美諸島までの幅を持ったゾーンとしてとらえられていました。境界の外側(沖縄・先島地域)は、当時の日本人には鬼の住む「異界」と考えられていました。

鎌倉時代になると、日本国の東西の境界をおさえるために、幕府のリーダー的存在であった北条得宗家が「外が浜」や「鬼界島」を直接の影響下に置こうとします。なぜこの地を重要視したかというと、日本国の端と端をおさえていることが、日本全体を統治するうえで象徴的な意味を持っていたからです。

14世紀のはじめ(鎌倉時代後期。琉球では英祖王の時代)、北条得宗家の代官で薩摩半島の南部を拠点としていた千竈(ちかま)氏が、南九州のトカラ列島や奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島までの島々を所領としていたことがわかっています。その支配の実態は不明ですが、千竈氏は各島を政治的に統治したのではなく、現地勢力との交易権を確保した程度のものだったのではないかと考えられています。いずれにせよ、ここにいたって日本国の影響の及ぶ領域は最大となるのです。

参考文献:村井章介「中世国家の境界と琉球・蝦夷」(村井ほか編『境界の日本史』)

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