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2006年9月27日 (水)

奄美に古代日本の拠点発見?(3)

しかし、琉球諸島におけるヤマト勢力の拡大はここまででした。15世紀(室町時代頃)になると沖縄島で「琉球王国」が成立し、北に勢力を伸ばしてきたのです。琉球王国は明朝をはじめとしたアジア諸国との国際関係を築いて強大化していました。琉球はそれまでヤマトの勢力下にあった奄美地域へ軍事侵攻して、彼らの領域を次第に九州のほうへ押し戻していきます。

Photo_7 琉球の征服戦争で奄美の島々は次々と王国の支配下に入り、1450年には薩摩半島の南にある臥蛇(がじゃ)島まで領域を拡大します。この島は琉球・薩摩の両方に属していました。明確な国境線を持たないグレーゾーンとしての「境界」の性格をよく表しています。このように琉球王国の領域はヤマトの種子島・屋久島をうかがうほどの場所まで到達したのです【画像・クリックで拡大】。

ところが奄美地域のなかでも、最後まで琉球王国の支配を拒み続けた島がありました。それが喜界島です。琉球は王弟(おそらく布里)が軍隊を率いて喜界島を攻撃しますが成功せず、以降も喜界島は十数年にわたって琉球王国の侵攻を阻止し続けるのです。琉球はついに国王の尚徳が自ら大軍を出動させ、1466年にようやく喜界島を征服します。こうして奄美諸島の全域は「琉球」となります。対するヤマト勢力は奄美の奪還をめざしてしばしば攻撃してきたようです。1493年の日本商人による朝鮮王朝への報告では、日本の武装兵が奄美を奪うために侵入し、琉球側は多くの戦死者を出したものの大勝利を収めたとあります。

それにしても、琉球はなぜ喜界島を侵攻することにこだわっていたのか?また、なぜ喜界島があれだけ頑強に抵抗できたのか?…この答えを探るヒントが、今回紹介した城久遺跡群の存在とヤマト勢力の支配拠点「キカイガシマ」にあるのではないでしょうか。古代以来、奄美地域の政治的な中心地が喜界島にあった。その最重要拠点を落としてはじめて奄美地域を完全な支配下におくことができると琉球は考えていたように思います。そして喜界島は奄美のなかでもっともヤマトとの強い関係を持ち、彼らの支援を得ていたからこそ、たび重なる琉球の侵攻を退けることができたのではないでしょうか。

喜界島をふくむ奄美諸島は現在、鹿児島県に属していますが、薩摩藩に征服されるまでは「琉球王国」の一部でもありました。一般に“琉球の歴史”と言った場合、それはあくまでも沖縄島が中心であり、奄美や先島地域はあくまでも「辺境」としての位置づけしか与えられていないように思います。しかし、それは一面的な見方です。

奄美諸島の歴史を見てわかるのは、「琉球」ははじめから定まったカタチをしていたのではなく、また全体が均質な文化圏でもなかったことです。奄美諸島の社会は様々な経緯をたどって「琉球」になり、そして「沖縄県」ではない現在の姿があるのです。

これまで沖縄は“ヤマト中心史観”に対して異議を申し立て、自らの「琉球」の歴史を復権させる試みを続けてきました。しかし、当の批判者である沖縄自身が実は“沖縄島中心史観”におちいっていた面があったのではないでしょうか。奄美諸島の歴史はこのような考えを見直す、ひとつのキッカケを与えてくれるように思います。

参考文献:石上英一「琉球の奄美諸島統治の諸段階」(『歴史評論』603号)

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2006年9月21日 (木)

奄美に古代日本の拠点発見?(2)

奄美大島北部・喜界島の政治勢力とヤマトとの関係は、その後9、10世紀頃(平安時代頃)までは続いたようです。ヤマトでは南九州の島々を「キカイガシマ」あるいは「イオウガシマ」と呼ぶようになります。この名称は島そのものを指すだけでなく、「南島」全体の名称としても使われていました。当時の地理認識は今のように正確なものではなく、とくに現地に住んでいない人々(たとえば京都にいる貴族など)にとってはボンヤリとしたあいまいなものでした。

998年、奄美島人が九州を襲う事件が起こり、大宰府は「貴駕島(キカイガシマ)」に対して犯人を逮捕せよとの命令を発しています。このことから、この時期に大宰府が指揮する何らかの機関が「キカイガシマ」に設置されていたことがうかがえます。まだ特定されたわけではありませんが、今回報道された城久遺跡群の大規模建物の跡がこのヤマトの行政機関だった可能性はにわかに高まってきました。おそらくこの機関は交易品の調達を主な業務としていたとみられますが、記録が少ないこともあり、ヤマトの行政機関「キカイガシマ」と現地勢力が具体的にどのような政治的関係を築いていたのかは、よくわかっていません。

この頃には日本と宋(中国)との貿易の影響で、南島産物を調達するヤマトの民間商人の活動が活発となり、また徳之島で「カムィヤキ」と呼ばれる硬質の土器が大量生産され、先島までの琉球諸島全域に流通しはじめます。カムィヤキは中世日本や朝鮮半島の技術で作られた土器です。背後には北からの組織的な集団があって、彼らが琉球諸島の特産品を入手する代価とするために計画的にこれらの土器を生産したのではないか、と指摘されています。カムィヤキとともに長崎産の高級な石製ナベも流通するようになり、11世紀以降、奄美地域を中心とした交易のネットワークは琉球諸島全体に広がり、そのインパクトはその後の琉球社会を激変(農耕の開始や「按司」の登場など)させるきっかけになるのです。

中世の日本では、自らの領域を「東は外が浜(現在の青森県)、西は鬼界島」までと考えていました。ただし現代の国境のように明確な「線」で把握されていたわけではありません。当時の国境は「線」ではなく、ある地点がどちら側の国家にも属している(あるいはしない)というような、漠然としたグレーゾーンの「面」としての性格を持っていました。日本国の西の境界としての「鬼界島」は、主に薩南諸島、さらに奄美諸島までの幅を持ったゾーンとしてとらえられていました。境界の外側(沖縄・先島地域)は、当時の日本人には鬼の住む「異界」と考えられていました。

鎌倉時代になると、日本国の東西の境界をおさえるために、幕府のリーダー的存在であった北条得宗家が「外が浜」や「鬼界島」を直接の影響下に置こうとします。なぜこの地を重要視したかというと、日本国の端と端をおさえていることが、日本全体を統治するうえで象徴的な意味を持っていたからです。

14世紀のはじめ(鎌倉時代後期。琉球では英祖王の時代)、北条得宗家の代官で薩摩半島の南部を拠点としていた千竈(ちかま)氏が、南九州のトカラ列島や奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島までの島々を所領としていたことがわかっています。その支配の実態は不明ですが、千竈氏は各島を政治的に統治したのではなく、現地勢力との交易権を確保した程度のものだったのではないかと考えられています。いずれにせよ、ここにいたって日本国の影響の及ぶ領域は最大となるのです。

参考文献:村井章介「中世国家の境界と琉球・蝦夷」(村井ほか編『境界の日本史』)

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2006年9月17日 (日)

奄美に古代日本の拠点発見?(1)

Photo_4 今月10日、「沖縄タイムス」紙上で喜界島での遺跡発見が大々的に報じられました。喜界島の城久(ぐすく)遺跡群でおよそ1000年前の大規模な建物跡と、中国産の高級陶磁器やヤマト産の土師器(はじき)などが多数発見されたのです。この遺跡は日本国家が置いた「南島」経営の拠点で、大宰府(だざいふ)の出先機関のようなものだった可能性が指摘されています。これが本当だとすると、平安時代頃の奄美はヤマト朝廷の傘下にあり、琉球諸島にもその影響を及ぼしていたことになります。この城久遺跡群の存在は、以前より専門家の間で注目されていました。今回はこれまでの研究をもとに、その歴史的意義について説明したいと思います(【画像】は南西諸島地図。クリックで拡大)。

城久遺跡群をはじめとした奄美諸島の遺跡調査で次第に明らかになっていることは、沖縄島を中心とした「琉球王国」が成立する以前、かつて奄美地域が琉球諸島の文化・交易の中心地だったのではないかということです。

奄美諸島では古代のヤマト産の外来物が多く出土している場所があります。それは奄美大島の北部と喜界島です。ヤマト産のモノはとくにこの場所に集中して見つかっています。さらに奄美大島の北部では、交易品として大量のヤコウガイ(盃や漆器細工の原料となる)を集めて加工していた6、7世紀頃の遺跡(小湊フワガネク遺跡群)も発見されています。これとほぼ同時期、『日本書紀』をはじめとした古代日本の記録に南島人たちが朝貢した記事が知られています。また九州の大宰府からも“奄美島”からの物品を納めたとみられる木簡が見つかっています。

これらの事実から浮かび上がるのは、6、7世紀頃(日本史でいうと飛鳥時代頃)、奄美大島北部と喜界島を中心に組織化された独自の政治勢力が登場し、彼らがヤマトの古代国家と「朝貢」関係を結んで交易活動を行っていたという姿です。この背景には南島の特産品(ヤコウガイ・赤木など)がヤマトの中央で珍重され、これらを調達するためヤマトから南島への働きかけがあったとみられます。ヤマトからの南島産物の需要が高まり、この北からの動きに刺激されるかたちで奄美諸島の「文明化」が進んだのです。

ただ注意しなくてはいけないのは、当時のヤマトにとっての「南島」とは、琉球諸島の全体を指していなかったとみられることです。ひんぱんに「朝貢」してきた南島人は主に種子島・屋久島の人々で、次に奄美地域とトカラ列島が多く、沖縄・先島地域とされる球美(久米島?)・信覚(石垣?)は何とたったの1度だけ。つまり、ヤマト朝廷にとっての「南島」とは南九州の大隅諸島から奄美諸島までを指し、沖縄・先島地域はその範囲外にあったのです。

沖縄地域へのヤマトの影響は奄美をワンクッションおくかたちで及んでいたようです。奄美諸島で作られた土器の形式は北のヤマトの影響が強く見られるのに対し、沖縄諸島では以前からヤマトの影響を全く受けずに独自の土器文化を保ち続けていました。それが奄美での「文明化」が進んではじめて奄美の土器の形式を取り入れた土器が登場します。ヤマトの影響を強く受けた奄美が発信地となって、周辺地域の沖縄にもその文化が伝わったということです。この頃の奄美は琉球諸島のなかでも最先端の地域だったのです。

参考文献:池田榮史「琉球王国成立以前―奄美諸島の位置付けをめぐって」(科研報告書『前近代の東アジア海域における唐物と南蛮物の交易とその意義』)

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2006年9月 8日 (金)

王様の朝ごはん

琉球の国王は日常、どのような食事をとっていたのでしょうか。沖縄(琉球)料理といえば豚肉料理やチャンプルー料理をまず思い浮かべると思います。あるいは琉球は中国と交流があったから、王様も中華料理に近いものを食べていたと考える方も多いのではないでしょうか。

実は王国が滅びる7年前の1872年(明治5)に書かれた、最後の国王尚泰が食べた日常食の献立が残されています。王様にとってのご馳走ではなく、普段食べている食事というところが非常におもしろいところです。この献立は首里城の料理長だった家に伝わっていたもので、メニューは朝・昼・晩の三食ともあるのですが、ここでは朝食の献立を紹介したいと思います。

王様の朝食(一汁五菜) 

  • 酢をつけた魚(刺身?)、色のり ※色のり…海苔の一種?不明。
  • あられ魚・若菜・シイタケ入りの汁 ※あられ魚…魚肉をサイの目に細かく切ったもの。
  • 香の物(結びタクワン、塩もみ大根) ※結びタクワン…結び昆布のようにしたタクワン。
  • ご飯
  • 煮物、キスのあぶり焼き、蒸し麩(ふ)、レンコン
  • あいなめ、島田湯葉、糸三つ葉 ※糸三つ葉…三つ葉を糸状に細かく切ったもの。
  • 菜のお浸しカラスザンショウがけ
  • 魚の串焼き(てり焼き)

何ともおいしそうなメニューですね。王様は普段こんな料理を食べていたのです。この料理を見てわかることは、今の沖縄料理をうかがわせるようなものは全くないという事実です。この献立は一種のマニュアルのようなもので、特定の日のメニューをそのまま記録したというわけではないようですが、王様の食事はほとんど和食に近いものだったことがわかります。実は王様の日常食だけでなく、首里城などの行事の際に出される料理はそのほとんどが日本料理でした。

じゃあ、みんなが知ってる琉球料理は一体何なんだ!?と思うかもしれません。もちろん琉球には中華料理の影響が全くなかったわけではありません。中華料理は中国から国王を任命するための使者(冊封使)が来た時に、彼らを歓待する料理として出されました(そのメニューも現在残されています)。これらの中華系料理、豚肉料理は中国系移民の住む久米村を中心に普及していましたが、あくまでも琉球の士族たちが公的行事の際に食べる料理は日本料理が原則だったようです。王朝の料理人たちは薩摩へ修行に行き、そこで日本料理を学んで免許を受けた者が数多くいました。

身分ごとに食べる料理がちがっていたことも考慮しなくてはならないでしょう。沖縄料理はアブラっこく、味くーたー(味が濃い)で「まずい」という声もたまに聞きますが(僕は好きですが)、現在の一般的な沖縄料理は主に民間で食べられていた料理です(しかも近代以降に普及したもの)。庶民は肉体労働をしていたためアブラ分や塩分の多い食事が中心でしたが、王族や士族はさほどカラダを動かさなかったので、あっさり・うす味の料理を食べていたのです。

実は、正統な琉球王朝料理というものは現在、部分的にしか伝えられていません。王朝料理を総体として知る人間は王国が滅亡して、やがて姿を消してしまったのです。尚泰王の子で“グルメ男爵”として知られる尚順男爵は「琉球料理の堕落」と題するエッセイを書いて、「もはや琉球料理の真味を知った人はほとんど絶滅したに近い」と述べています。

ゴーヤーチャンプルーやラフテーが沖縄料理の全てだと思っていませんか。決してそんなことはありません。かつて王国時代に食べられていた“琉球料理”は様々なバリエーションがあったことを、この王様の献立はおしえてくれます。

参考文献:池宮正治「伝・尚泰王の御献立」(『首里城研究』6号)、『松山御殿物語』刊行会編『松山御殿物語』

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2006年9月 1日 (金)

沖縄県消滅!?幻の「南洋道」

地方分権の動きにあわせて、いま「道州制」をめぐる議論が活発に行われています。都道府県を解消し、日本の行政区を新しくいくつかの「道・州」に分ける案です。もし実現すれば明治以来の大改革になりますが、そのなかで沖縄県は「九州道」に編入するのではなく、「琉球単独州」にすべきだという意見が沖縄側から強く主張されています。沖縄の歴史・文化の独自性がそのような主張をさせるわけですが、実は、これと似たような議論が100年前にも起こっていました。

それは戦前の「南洋道」設置をめぐる問題です。これは日本の北にある「北海道」と並ぶようなかたちで、南にも同じように「南洋道」をつくってしまおうとするもので、日清戦争で新たに獲得した植民地の台湾に、沖縄県(または奄美もふくめる)を吸収合併するという計画でした。ことの発端は1908年(明治41)に帝国議会の代議士がこの計画を提起したことでした。そして、この計画に前沖縄県知事の奈良原繁(ならはら・しげる)が賛成して運動が進められている、とのニュースが沖縄に飛びこんできたのです。この計画は沖縄県から出されたものではなく、沖縄側にとっては寝耳に水でした。

沖縄側はこの「南洋道」設置計画に対して猛反発し、「琉球新報」では「台湾直轄論」という社説をかかげて反対論を展開します。「帝国の一部として、祖国の光栄ある歴史と共にあろうと忠誠を尽くしている沖縄を植民地の下に組みこむとは、不届き千万である!」などと述べています。「皇国日本」との一体化をめざして努力しているのに、沖縄を台湾に売り飛ばすこの仕打ちは何事だ、というわけです。

背景には台湾が中央政府に納める関税を補うため、沖縄県の収入を当てにしたことがあったとも言われていますが、計画した代議士は、「沖縄県は中央政府のお荷物になっているから、台湾に管轄を移したほうが内地の負担も軽くなるだろう」と語っています。いずれにせよ、当時の日本政府は帝国の南端となった台湾の経営を重要視していて、沖縄にはほとんど関心がなかったのです。この計画は結局、各方面からの反対で立ち消えになってしまいますが、近代を通じて沖縄がスルーされる状況は続きます。皮肉なことに、中央政府が沖縄の重要性に気づくのは沖縄戦、軍事戦略上の拠点としての位置づけなのです。

「南洋道」設置の動きに対して、沖縄側は純粋に日本を慕(した)い、「民族的」な観点からこれに反対したのでしょうか。必ずしもそうではないと僕は思います。沖縄側が何より恐れていたのは、沖縄の地位が「植民地」同然に転落してしまうことでした。沖縄県という行政区分が消滅して「沖縄」としての主体がなくなってしまうことが、沖縄の人々にとって最も避けるべき事態だったのです。逆説的ですが、「日本帝国」と同化することが、「沖縄」の地位向上と、それにともなう主体性を発揮できる道だと当時の人は考えていたように思います。

つまり「南洋道」編入に反対して日本帝国との一体化を求めた戦前の沖縄と、「九州道」編入に反対して「琉球独立州」を主張する現在の沖縄は、カタチはちがえども“主体性”を発揮しようとする意図においては、ある程度共通しているのではないでしょうか。

参考文献:『沖縄大百科事典』、高良倉吉『「沖縄」批判序説』、「琉球新報」1908年11月~12月

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