奄美に古代日本の拠点発見?(3)
しかし、琉球諸島におけるヤマト勢力の拡大はここまででした。15世紀(室町時代頃)になると沖縄島で「琉球王国」が成立し、北に勢力を伸ばしてきたのです。琉球王国は明朝をはじめとしたアジア諸国との国際関係を築いて強大化していました。琉球はそれまでヤマトの勢力下にあった奄美地域へ軍事侵攻して、彼らの領域を次第に九州のほうへ押し戻していきます。
琉球の征服戦争で奄美の島々は次々と王国の支配下に入り、1450年には薩摩半島の南にある臥蛇(がじゃ)島まで領域を拡大します。この島は琉球・薩摩の両方に属していました。明確な国境線を持たないグレーゾーンとしての「境界」の性格をよく表しています。このように琉球王国の領域はヤマトの種子島・屋久島をうかがうほどの場所まで到達したのです【画像・クリックで拡大】。
ところが奄美地域のなかでも、最後まで琉球王国の支配を拒み続けた島がありました。それが喜界島です。琉球は王弟(おそらく布里)が軍隊を率いて喜界島を攻撃しますが成功せず、以降も喜界島は十数年にわたって琉球王国の侵攻を阻止し続けるのです。琉球はついに国王の尚徳が自ら大軍を出動させ、1466年にようやく喜界島を征服します。こうして奄美諸島の全域は「琉球」となります。対するヤマト勢力は奄美の奪還をめざしてしばしば攻撃してきたようです。1493年の日本商人による朝鮮王朝への報告では、日本の武装兵が奄美を奪うために侵入し、琉球側は多くの戦死者を出したものの大勝利を収めたとあります。
それにしても、琉球はなぜ喜界島を侵攻することにこだわっていたのか?また、なぜ喜界島があれだけ頑強に抵抗できたのか?…この答えを探るヒントが、今回紹介した城久遺跡群の存在とヤマト勢力の支配拠点「キカイガシマ」にあるのではないでしょうか。古代以来、奄美地域の政治的な中心地が喜界島にあった。その最重要拠点を落としてはじめて奄美地域を完全な支配下におくことができると琉球は考えていたように思います。そして喜界島は奄美のなかでもっともヤマトとの強い関係を持ち、彼らの支援を得ていたからこそ、たび重なる琉球の侵攻を退けることができたのではないでしょうか。
喜界島をふくむ奄美諸島は現在、鹿児島県に属していますが、薩摩藩に征服されるまでは「琉球王国」の一部でもありました。一般に“琉球の歴史”と言った場合、それはあくまでも沖縄島が中心であり、奄美や先島地域はあくまでも「辺境」としての位置づけしか与えられていないように思います。しかし、それは一面的な見方です。
奄美諸島の歴史を見てわかるのは、「琉球」ははじめから定まったカタチをしていたのではなく、また全体が均質な文化圏でもなかったことです。奄美諸島の社会は様々な経緯をたどって「琉球」になり、そして「沖縄県」ではない現在の姿があるのです。
これまで沖縄は“ヤマト中心史観”に対して異議を申し立て、自らの「琉球」の歴史を復権させる試みを続けてきました。しかし、当の批判者である沖縄自身が実は“沖縄島中心史観”におちいっていた面があったのではないでしょうか。奄美諸島の歴史はこのような考えを見直す、ひとつのキッカケを与えてくれるように思います。
参考文献:石上英一「琉球の奄美諸島統治の諸段階」(『歴史評論』603号)
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