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2006年7月27日 (木)

日経BP社サイトに紹介!

「目からウロコの琉球・沖縄史」の姉妹ブログ、「おきなわ歴史散歩」が日経BP社サイトの「セカンドステージ・大人のブログ探訪」で紹介されました!

紹介文を書いてくださったのは『ブログ進化論』の著者、岡部敬史さんです(ビックリ)。

「歴史散歩」という比較的ポピュラーなテーマを選びながらも、そこで紹介している沖縄の風景が、とても独創的なブログ。このブログを見ると、誰もが沖縄に行きたくなる。(【快適生活】ページ見出しの紹介)

…とのことです。岡部さん、どうもありがとうございました。

「セカンドステージ」は45歳以上の大人向けのサイトだそうで、僕のような若造のブログが選ばれるというのは、僕の趣味や感覚が45歳以上の方とだいたい同じということなのでしょうか…

ともかくこのように多くの人に紹介してもらえるのはありがたいことです。これからも読者の皆さんが面白いと感じるようなブログにすべくがんばっていきます。

そのためにも皆さんのクリックが僕のチカラになります!

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2006年7月13日 (木)

燃えよ大綱引き

毎年10月に行われる那覇の大綱引き。那覇の最も大きな祭りのひとつで、数十万人が参加するビックイベントです。あわせて全長200メートル、直径1.5メートルになる巨大な綱(つな)2本を「貫抜(かぬち)棒」と呼ばれる棒で連結し、東と西に分かれて引き合います(動画はこちら)。大綱はギネスにも認定された世界最大級の綱。この綱引きは王国時代から続く伝統ある祭りで、東西双方がお互いのプライドをかけて勝負する勇壮な祭りとされています(現在の大綱引きは、戦前にとだえていた祭りを1971年に復活したもの)。

しかし王国時代の那覇の大綱引きは勇壮を通りこして、過激というほかありません。当時の大綱引きは「戦花遊び(いくさはなあしび)」とも呼ばれた乱闘がともなう祭りで、那覇の人々はこの祭りに命をかけて挑んでいました。非日常的なイベントである祭りは民衆のパワーが一気に爆発する場所だったのです。その熱狂ぶりはワールドカップどころの騒ぎではありません。王国末期(日本でいうと幕末)、1863年の那覇大綱引きの様子をみてみましょう。

この年の大綱引きは昼間の華麗な旗頭(はたがしら)の行列のあと、夜9時すぎに東西に分かれて綱引きが開始されます。ドラやカネ・太鼓、火砲の音が響くなか、東西両方の綱がまさに連結されようとする時、突如として試合開始のカネが鳴らされます。すでに2本の綱が中央で連結されているとカン違いした両陣営は、まだつながっていない綱を思いっきり引くと、それぞれの方向に一気にバタバタと将棋倒しになってしまい、勝負は引き分けの判定がくだされます。

翌日、判定に納得できない東側陣営は「西側から勝手に合図をして引きはじめたから西側の反則負けだ」と主張して、勝ちどきをあげて西側にアピールしようと勢ぞろいします。これに怒った西側の陣営、彼らの勝どきを阻止しようと東側に相対し、両陣営は棒や刃物、石などで武装して「合戦」寸前にまでなってしまうのです。この一触即発の状況に、薩摩役人と王府役人が仲裁に入って解散命令を出し、すんでのところで「合戦」はまぬがれました。

ところがこの場は何とか収まったものの、不満がくすぶる東西両陣営の一部でついに大乱闘がぼっ発、死傷者を出す惨事となり、見かねた王府は9年間も那覇の大綱引きを禁止してしまいます。この時の大乱闘では、綱引きが行われた付近の民家の石垣がくずされて敵に投げつける石として使われ、またある者は顔中に真っ黒なスミを塗りたくり、棒や竹ヤリを持って集団でかけ出していったといいます。刃物や竹ヤリで屈強なニーセー(青年)たちが激突する那覇の大綱引き…過激すぎて参加したくありませんね。

大綱引きに限らず、那覇ではハーリー(爬龍舟のレースを行う祭り)の際にもニーセーたちのケンカが多発したそうで、王府や薩摩役人はたびたびケンカ・口論の禁止令を出していました。しかし、かれら権力は祭りに熱狂する那覇の人々を止めることはできなかったのです(こう言っては何ですが、たび重なる自粛要請にもかかわらず、毎年のようにくり返される那覇市の成人式騒動のようなものでしょうか…)。

人々がイベントや勝負ごとに熱くなるのは今も昔も変わらないのかもしれませんが、昔の人の祭りにかける情熱はハンパじゃありませんね。

参考文献:島袋全発『那覇変遷記』、豊見山和行「近世琉球民衆の「抵抗」の諸相」(『民衆運動史』1)

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2006年7月 2日 (日)

昆布と富山のクスリ売り

昆布(こんぶ)はクーブイリチー(昆布の炒めもの)や汁ものをはじめ、今や沖縄料理にかかせない食材です。沖縄の昆布消費量は全国一といわれます。しかしタイトルの「昆布と富山のクスリ売り」。それが沖縄の歴史とどんな関係があるのでしょう。

沖縄で昆布が広く食べられるようになったのは江戸時代(近世)のことです。ご存じだと思いますが、昆布は沖縄で採れません。沖縄で食べられる昆布は移入されたものです。ではその昆布はどこで採れたものなのでしょうか。実は、琉球で食べられていた昆布はエゾ地(北海道)産でした。

18世紀、エゾ地は開発が進められ、釧路や根室の沿岸で採れる昆布がニシンなどとともに北前船で出荷され、流通するようになります。昆布は日本海沿岸を通り、最後には大坂市場に運ばれていきます。そして、この昆布の流通網と結びついていたのが富山のクスリ売りでした。彼らは東北から九州の薩摩まで販路を広げてクスリを売っていました。その富山のクスリ売りが目をつけたのが、琉球が中国からもたらす漢方薬の原料です。琉球は中国から大量の漢方薬の原料を輸入していて、クスリ売りにとって貴重な漢方薬はノドから手が出るほど欲しいものでした。そこで富山のクスリ売りは薩摩を通じて、日本海ルートでもたらされる昆布を代価に琉球の漢方薬をゲットしたのです。

こうして琉球にはエゾ地産の昆布が入ってくるようになり、昆布は琉球社会に定着します。祝い事に昆布が贈り物として使われたり、昆布料理が作られたりと、生活に欠かせないものとなっていきます。さらにこの昆布は琉球国内だけで消費されるにとどまらず、中国への輸出商品にもなり、やがて昆布は琉球から中国に輸出される主要商品としての位置を占めるようになります。エゾ地の昆布はめぐりめぐって琉球へたどり着き、さらに中国にまでもたらされることになるのです。

ふだん何げなく食べている沖縄料理の昆布。実は沖縄の歴史が生んだ食材だったのです。島国である沖縄は決して孤立していたのではなく、外の世界との関係のなかで成り立っていたことがよくわかる一例です。

参考文献:真栄平房昭「琉球貿易の構造と流通ネットワーク」(豊見山和行編『日本の時代史18』)

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