もうひとつの沖縄戦
6月23日―。61年目の慰霊の日がやってきました。この日は沖縄戦が終結したとされる日です。昭和20年(1945)4月1日、アメリカ軍が上陸してから数ヶ月間、沖縄に「鉄の暴風」が吹き荒れました。言うまでもなく、この戦いで多くの尊い命が失われたのですが、皆さんは「もうひとつの沖縄戦」があったことをご存じでしょうか。
その戦いとはサイパン島の戦い。サイパン島は当時日本の委任統治領だった太平洋に点在する南洋群島のうち、マリアナ諸島に位置します。なぜ沖縄から遠く離れたこの島の戦いが「もうひとつの沖縄戦」なのでしょうか。
ミッドウェー、ガダルカナルと敗退を続ける日本軍は、昭和19年6月、日本の「絶対国防圏」であったマリアナ諸島攻略に向かうアメリカ軍を迎え撃ちます。世にいうマリアナ沖海戦です。日本海軍は残された空母や戦艦など艦艇55隻、艦載機450機の大艦隊を集結させ、真珠湾以来のZ旗を掲げて最後の決戦に挑みました。しかし、最新の兵器を持つアメリカ艦隊に完膚(かんぷ)なきまでにたたかれて機動部隊は壊滅、日本の敗戦は決定的となりました。救援を絶たれたサイパン島の日本軍はアメリカ軍の圧倒的な兵力の前に玉砕、民間人は軍と運命をともにし、多くの人々が自決します。人々が身を投げた断崖の「バンザイクリフ」はよく知られています。
実はサイパン島の民間人は、その多くが沖縄出身者でした。その数は島の人口約3万人のうち6割にもおよんでいました。つまり、サイパン島の地上戦で最も多くの犠牲者を出したのは沖縄出身者だったのです。この戦いでの民間人の戦死者は1万人にのぼります。
南洋群島に沖縄出身者が多いのは、戦前の沖縄の経済状況が深く関係しています。第一次大戦後の「戦争バブル」の崩壊によって、沖縄は「ソテツ地獄」と呼ばれた深刻な経済不況が訪れます。生活が苦しくなった沖縄の人々は海外に活路を見出し、ハワイや南米に多くの人々が移住しました。彼らは移住先で金を稼ぎ、沖縄の親戚に送金するかたちで沖縄経済を支え続けました。
日本領となった南洋群島には、南洋興発会社が製糖業や鉱山開発に乗り出していました。会社は不況により働き口のなかった沖縄の人々を勧誘してこれらの仕事に従事させます。南洋群島と沖縄の気候はよく似ていて、さらにサトウキビ栽培をよく知る沖縄出身者は働きやすい場所だったのです。こうして南洋に定着した沖縄出身者は、やがて家族を呼びよせて沖縄人コミュニティをつくりはじめます。南洋群島全体では在留邦人のうち、実に8割が沖縄県民だったといいます。戦前の南洋群島は“第二の沖縄”となったのです。
「もうひとつの沖縄戦」が終わって62年。沖縄戦で亡くなった人たちの冥福を祈るとともに、この戦いで犠牲になったウチナーンチュのこともまた忘れてはいけないように思います。
参考文献:『沖縄県史7 移民』
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