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2006年6月24日 (土)

もうひとつの沖縄戦

6月23日―。61年目の慰霊の日がやってきました。この日は沖縄戦が終結したとされる日です。昭和20年(1945)4月1日、アメリカ軍が上陸してから数ヶ月間、沖縄に「鉄の暴風」が吹き荒れました。言うまでもなく、この戦いで多くの尊い命が失われたのですが、皆さんは「もうひとつの沖縄戦」があったことをご存じでしょうか。

その戦いとはサイパン島の戦い。サイパン島は当時日本の委任統治領だった太平洋に点在する南洋群島のうち、マリアナ諸島に位置します。なぜ沖縄から遠く離れたこの島の戦いが「もうひとつの沖縄戦」なのでしょうか。

ミッドウェー、ガダルカナルと敗退を続ける日本軍は、昭和19年6月、日本の「絶対国防圏」であったマリアナ諸島攻略に向かうアメリカ軍を迎え撃ちます。世にいうマリアナ沖海戦です。日本海軍は残された空母や戦艦など艦艇55隻、艦載機450機の大艦隊を集結させ、真珠湾以来のZ旗を掲げて最後の決戦に挑みました。しかし、最新の兵器を持つアメリカ艦隊に完膚(かんぷ)なきまでにたたかれて機動部隊は壊滅、日本の敗戦は決定的となりました。救援を絶たれたサイパン島の日本軍はアメリカ軍の圧倒的な兵力の前に玉砕、民間人は軍と運命をともにし、多くの人々が自決します。人々が身を投げた断崖の「バンザイクリフ」はよく知られています。

実はサイパン島の民間人は、その多くが沖縄出身者でした。その数は島の人口約3万人のうち6割にもおよんでいました。つまり、サイパン島の地上戦で最も多くの犠牲者を出したのは沖縄出身者だったのです。この戦いでの民間人の戦死者は1万人にのぼります。

南洋群島に沖縄出身者が多いのは、戦前の沖縄の経済状況が深く関係しています。第一次大戦後の「戦争バブル」の崩壊によって、沖縄は「ソテツ地獄」と呼ばれた深刻な経済不況が訪れます。生活が苦しくなった沖縄の人々は海外に活路を見出し、ハワイや南米に多くの人々が移住しました。彼らは移住先で金を稼ぎ、沖縄の親戚に送金するかたちで沖縄経済を支え続けました。

日本領となった南洋群島には、南洋興発会社が製糖業や鉱山開発に乗り出していました。会社は不況により働き口のなかった沖縄の人々を勧誘してこれらの仕事に従事させます。南洋群島と沖縄の気候はよく似ていて、さらにサトウキビ栽培をよく知る沖縄出身者は働きやすい場所だったのです。こうして南洋に定着した沖縄出身者は、やがて家族を呼びよせて沖縄人コミュニティをつくりはじめます。南洋群島全体では在留邦人のうち、実に8割が沖縄県民だったといいます。戦前の南洋群島は“第二の沖縄”となったのです。

「もうひとつの沖縄戦」が終わって62年。沖縄戦で亡くなった人たちの冥福を祈るとともに、この戦いで犠牲になったウチナーンチュのこともまた忘れてはいけないように思います。

参考文献:『沖縄県史7 移民』

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2006年6月16日 (金)

琉球はどんな文字を使ってた?

独立国だった時代(古琉球)の琉球王国は、文書にどのような様式のものを使っていたのでしょうか。おそらく多くの人は、琉球王国が中国・明朝の朝貢国であったことから、中国風の漢文を使っていたのではないかと考えていると思います。しかし、国内の文書に漢文はほとんど使われていません。では琉球独自の文字があった?いいえ。実は、琉球国内で広く一般的に使われていたのは日本の「ひらがな」でした。

Jul21255 国王から家臣に出された任命(辞令)書【写真。クリックで拡大】は全て「ひらがな」の草書体で書かれ、中世日本で使われていた「候文(そうろうぶん)」という書き方と同じです。候文とは、文章の最後を「~です。」とするのではなく「~候(そうろう)。」と書く文体のことです。

もちろん琉球から明朝に送る外交文書には全て漢文が使われています。しかし、これは琉球自身が漢文で書くことを選んだのではなくて、当時明朝に外交の使者を送るには、明朝で使われている公文書の様式にのっとった外交文書を書かなくてはならなかったからです。これに違反した場合は、門前払いされてしまいます。だから日本も朝鮮も東南アジアも、明朝に出す外交文書は琉球と同じように漢文です。琉球だけが漢文を使っているということではありません。

Cimg0214_2 古琉球時代につくられた石碑にも「ひらがな」が使われています。例えば、1597年に建てられた「浦添城の前の碑」と呼ばれる石碑の表には「ひらがな」、裏には漢文が書かれています【写真。クリックで拡大】。写真に書かれているのは三司官の名前です。「くにかミの大やくもい、ま五ら」「とよミ城の大やくもい、まうし」「なこの大やくもい、またる」と書かれています。これは国頭親方、豊見城親方、名護親方のことです。当時はこのように呼んでいました。

このような事実から、「琉球は日本と同じなんだ」という考えが出てくるかもしれません。しかし、実はそうではありません。結論は、「琉球と日本は同じではない」のです。なぜ!?…いぶかしく思うかもしれませんが、その理由を説明しましょう。

まず、中世の日本は公文書で「ひらがな」を使いません。当時の主な公文書に使われていたのは、「和様漢文」という日本風に書かれた漢文。「ひらがな」は「女文字」とも呼ばれ、主にプライベートな文書に使われました。日本ではプライベートで使われる文字を、琉球では国家の公的文書に採用してしまうのです。これは日本とは全くちがうものです。

さらに、琉球の公文書は「ひらがな」で書かれながら、年号に必ず中国年号を使用しています。これは琉球王国が明朝の朝貢国だったからなのですが、日本では国内文書に中国年号を使うことは絶対にありません。また琉球では「ひらがな」を使いながら、日本にはない琉球独特の言葉や表現を使っています。「ひらがな」を知っているだけでは、琉球の文章は、文字そのものは読めても意味はわからないのです。

このように、琉球で日本の「ひらがな」を使っているから「琉球と日本は同じだ」、という結論にはならないことがわかります。それは日本で中国伝来の漢字を使っているから「日本と中国は同じだ」ということにならないのと同じことです。琉球は外から入ってきた文化を採り入れて、自らのものにしてしまった、ということなのですね。

参考文献:高良倉吉『琉球王国の構造』

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2006年6月 7日 (水)

泡盛だけじゃない!沖縄の酒

沖縄の酒といえば?皆さんはまず泡盛(あわもり)と答えるでしょう。もしくはオリオンビールを思い浮かべる方もいるかもしれません。もちろん正解なのですが、実は沖縄の酒はこれだけではありません。沖縄で最も古く伝統ある酒といえば…「ウンシャク酒」。何と口噛み酒!これが“本来”の沖縄の酒です。

以前、少し紹介したことがありましたが、600年前、嵐で琉球に漂着した朝鮮の人がその様子を目撃しています。その酒はにごった酒で、米を水につけてやわらかくし、女性が口で噛んでグチャグチャにしたあと吐き出して容器に入れ、それを3日ほど置くと出来上がり。唾液に含まれる酵素を利用して米を発酵させる酒で、アルコール分は低かったようです。中国の記録では、この酒は「米奇(みき)」と呼んでいたとあります。つまり、この酒は神酒(みき)なのです。味を楽しんだり、酔っ払うための酒ではなく、神にささげる儀式用の酒だったわけですね。口噛み酒はアジア各地に存在していました。

ウンシャクの語源は「歯」を意味する「うむしゆこ」からきているようで、“歯で噛んでつくる酒”ということらしいです。しかし「ミキ」と呼ばれた酒の製法には、口で噛むものではなく、炊いた米に麹(こうじ)を加えて、数ヶ月間おいてつくるものもあったようです。いわゆるドブロクのような酒だったとみられます。原料は米だけでなく、麦やイモ、粟などの雑穀も使われたようです。

では沖縄の酒の代表である「泡盛」の由来は?酒にくわしい方ならご存じかもしれませんが、泡盛はシャム(タイ)などの東南アジアからもたらされた外来の酒がもとになったと考えられています。古琉球時代には「南蛮酒」や「天竺酒」などの外来酒が輸入されたことが確認されています。この酒はいわゆる焼酎などの類の蒸留酒で、アルコール分も高いものです。また、「泡盛」という名称は江戸時代になって国外向けにつけられたもので、それ以前は単に「サキ(酒)」や「焼酒」などと呼ばれていたようです。つまり、泡盛は舶来の酒を沖縄風にアレンジした、比較的新しい酒なのです。

Cimg0021_1 沖縄古来の酒「ウンシャク酒」は、その後どうなったのでしょうか。実はこの酒、戦前まで実際につくられ、口噛み酒なども神事などに使われていたそうです。現在ではさすがに口噛み酒はなくなったようですが、沖縄伝統のウンシャク酒は完全に途絶えたわけではありません。この酒は形を変えて現在に受け継がれています。それが栄養飲料ミキです【写真。クリックで拡大】。これは酒ではなく、もちろん口噛みでもありませんが、発酵させる前の米をドロドロの状態にしたものがもとになっているようです。今では黒糖やショウガ、ウコン入りなど様々な種類のミキが販売されています(僕は黒糖入りが好きです)。ウンシャク酒は新たな進化をとげて現代に生き続けているのです。今度ミキを飲むときには、その歴史に思いをはせながらドロドロのドリンクをノドに流し込んでみてはいかがでしょうか。

参考文献:『沖縄県史』22巻、高良倉吉『琉球王国史の課題』

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