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2006年5月30日 (火)

琉球の構造改革-羽地朝秀の闘い-(3)

王府組織の改変とともに行われたのは経済・財政改革でした。荒廃した農村を立て直すため、羽地は役人の綱紀粛正と公平な税の徴収を行う方針をうち出します。役人の利権構造にメスを入れ、彼らが不法に税を取り立てたり、百姓を使役しないようにチェック体制を強化し、あわせて百姓の負担も軽減しました。

さらに経済改革の柱としてあげられるのが、日本の石高制の導入と連動した土地開墾策です(仕明政策)。それまでの琉球は「地割(じわり)」制と呼ばれた土地の共同保有制度をとっていました。これは百姓の間で“格差社会”を生まないための工夫でしたが、羽地はこの方針を大転換し、各人が自ら開墾した土地の私有と自由な売買を認めたのです。これにより士族たちも開墾に乗り出し、土地開発ブームが起こって農地は拡大し、収穫も増加していきます。

さらに開発した土地には稲のほか、サトウキビとウコン(鬱金。ウッチン)が栽培され、とくに砂糖は、かつて儀間真常がもたらした新製糖法によって、やがて琉球の基幹産業にまで成長します。生産された黒砂糖やウコンは王府によって買い上げられる専売制となり、日本の大坂市場などで売却され、ばく大な利益を生み出しました。現在見られる沖縄のサトウキビ畑の風景、健康食品として知られる沖縄特産のウコンは、ここに源流があります。羽地の経済改革は琉球を「交易型」から「農業型」の国家経営に転換するきっかけとなったのです(しかし、それでも日本と同水準の農業社会にするには無理がありましたが)。

こうして羽地の構造改革は一定の成果をおさめ、国の借金も返済して経済状況も回復します。しかし、旧来の価値観をぶち壊す彼のやり方に不満を持つ「抵抗勢力」も数多く存在していました。その筆頭は国頭按司正則(くにがみ・あじ・せいそく)です。羽地自身の言によると国頭は「邪欲の人」で、羽地の失脚を薩摩や琉球で画策していたようです。国頭は、羽地によって排除された聞得大君の夫で、旧勢力の代表ともいえる存在でした。羽地は既得権益を守ろうとする抵抗勢力に対して、彼らの領地を分割して力を削いでいます。羽地は「私の理解者は琉球には誰もいない。“北方”に一人いるだけだ」となげいています。実際には羽地路線を継ぐ「改革派」はいたのですが、この言葉は周りが敵だらけであることに羽地がついもらした弱音だったのではないでしょうか。

“北方”の理解者とは、薩摩藩家老の新納(にいろ)又左衛門だと考えられています。羽地は摂政になる以前に薩摩に3年滞在して彼と親交を深め、また当時の薩摩藩で行われていた経済改革を目の当たりにしています。琉球での構造改革は、この改革がモデルとなったとみられます。羽地のバックには薩摩藩があったわけですが、決して薩摩の意のままに動くあやつり人形ではありませんでした。薩摩藩の琉球への負担強化に対しては反対もしています。彼の目的はあくまでも琉球という主体をよみがえらせることにあったのです。羽地はこう述べています。「私のやり方に文句があるヤツは相手になろう。王国のためを思うなら、この身は惜しくない」と。彼は決して薩摩のためには働いていないのです。

羽地がしいた改革路線は、後に現れる大政治家、蔡温(さいおん)によって完成することになります。蔡温は琉球の国家経営について「腐った手綱で馬を走らせるようなものだ」と述べています。小国である琉球がいかに生き残るか。二人の改革者はこの困難な課題に挑んだ偉大な人物といえるでしょう。

参考文献:『那覇市史』通史篇1

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