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2006年5月23日 (火)

琉球の構造改革-羽地朝秀の闘い-(2)

羽地朝秀のとった改革の方法は、薩摩支配下の現状をひとまず肯定し、そのなかで琉球の主体性を確保しつつ、従来の王国内部のシステムを大改変するものでした。薩摩藩や日本の幕藩制国家は圧倒的な軍事力を持っており、小国の琉球が同じ軍事力でその支配をくつがえすことはどう考えても不可能でした。頼るべき宗主国の明朝はすでになく、新王朝の清朝に軍事的支援を求めることもしませんでした。わずかな可能性に賭けて琉球を再び戦乱に巻きこむことは、為政者としてできなかったのでしょう(実際、幕府は琉球が清朝と組んで反乱を起こすことを恐れていました)。

当時の琉球にとってもっとも深刻だった問題は、王国の社会システムが機能不全を起こしていることでした。羽地はこの問題の解決に全力をそそぎ、旧来の王国(古琉球)の「伝統」を徹底的に批判して、その変革を進めたのです。古琉球の社会は政治と古来の祭祀が結びつき、“非合理的”な伝統で物事が進められる社会でした。王府では聞得大君をはじめとした神女(ノロ)組織が大きな勢力を持ち、はんざつな祭祀、面倒な贈答や虚礼が日常的に横行し、政治に支障をきたしていました。またそれまでの「交易型」の政治組織も、時代に合わなくなっていました。

このため、まず行われたのは王府組織の再編と人々の意識改革でした。航海組織をモデルにした古琉球の「ヒキ」制度を解体し、あいまいだった身分制を厳格化していきます。王府の主導によって編集した系図をもとに、系図を持つ者が士族、持たない者を百姓として区別します。それまで王府と個人的に主従関係を結んでいた家臣は、系図によって身分を継承していく「家」をもとに王府に仕えるようになりました。現在みられる「門中(もんちゅう)」はこの時に生まれたものです。身分制の整備にともなって、士族は「文官」のエリート層として、学問だけでなく音楽や芸能などの教養を身につけることが重視されていきます。これはただ趣味として習得を求められたのではなく、日本と中国への外交儀礼上、必要なものでした。沖縄の「伝統」芸能は、この時に基礎がつくられました。

また羽地は、王府組織のなかから「神がかった」祭祀組織や慣習を排除し、合理的・効率的な行政組織の確立をめざしました。首里城の神女組織を政治から遠ざけ、神女の給与も大幅に削減し、非合理的な祭礼も廃止していきます。とくに国家最高の儀礼であった国王の久高島参詣を廃止し、代理を派遣するように改変したのは有名です。これは例えて言えば、日本の大嘗祭(だいじょうさい)を天皇自らが行わず、宮内庁職員に代行させるぐらいの「伝統」の破壊だといえるでしょう。この時に羽地が国王参詣廃止の論理として出したのが「日琉同祖論」です(同祖論についてはこちらを参照)。このような祭礼は多くの経費もかかるため、簡素化・廃止するのは王府の財政再建のためにも必要な作業でした。さらに王府の儀礼だけでなく、村々で行われていた虚礼も次々に禁止していきます。

旧来の価値観であった古琉球の「神がかり」的な観念のかわりに、新たな価値観として登場したのが儒教イデオロギーです。当初、儒教は久米村など一部で受け入れられていたにすぎませんでしたが、羽地の改革以降、琉球社会全体に普及していくことになります。今でこそ儒教は古くさい学問だと思われがちですが、当時としては非常に合理的な思想だったのです。

参考文献:高良倉吉「向象賢の論理」(『新琉球史近世編(上)』)

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コメント

羽地朝秀の戦いとは、システムの合理化なんですね。
いつの時代にも直面しうる、きわめて現代的な問題ですね。
王府の宗教儀礼そのものをなくす、なんてことにはならなかったのですか。もしくは宗教弾圧的なこととか。そのあたりもなんか興味ありますね。

続き、楽しみにしています。

投稿: 新城ボーダーインク | 2006年5月23日 (火) 11:03

>新城ボーダーインクさん

そうですね。羽地の戦いは不合理的なものとの戦いであったように思います。そのために、彼は周到な戦略を用意して戦いに挑んだ様子がうかがえます。

王府の宗教儀礼については羽地も完全否定はしていません。さすがの彼も宗教改革には気をつかったようです。羽地は民間のユタの規制にも乗り出したようですが、周囲の理解を得られず不徹底なまま終わっています。古琉球の伝統の強じんさは、現代でもユタが生き続けていることからもわかると思います。

この問題はまた別の機会にまとめて書いてみようかなと考えています。

投稿: とらひこ | 2006年5月24日 (水) 19:12

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