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2006年5月17日 (水)

琉球の構造改革-羽地朝秀の闘い-(1)

私たちがイメージする琉球の伝統とはいつ頃から成立したものなのでしょうか。多くの人は、アジア世界に雄飛していた大交易時代の琉球(古琉球時代)を思い浮かべることでしょう。しかし、その時代を調べていくと、どうも私たちがイメージする「琉球的」なものとは一致しない場合があります。実は、現在見ることのできる「琉球的」な文化・伝統は、薩摩に支配された近世において、それまでの伝統や社会制度を破壊する大改革の結果に出来上がったものなのです。大改革はまず、17世紀の羽地按司朝秀(はねじ・あじ・ちょうしゅう。唐名は向象賢)によって着手されました。なぜこの時代に、それまでの琉球社会を大転換するような改革が行われたのでしょうか。

1609年、琉球は薩摩軍に敗北します。薩摩は王国体制をつぶすことはなく、かなりの程度まで自治を認めましたが、様々な局面で政治への介入を強めてきました。これに対し王府は表向き服従しながらも、非協力的な対応をすることで抵抗を続けていましたが、その抵抗とはうらはらに、敗戦のショックから琉球の人々はやる気を失い、社会全体に無気力・退廃的な気分が広がっていました。役人は女色におぼれ、遊女に行政をまかせてしまう地方役人すらいたほどです。役人は百姓から不法な税徴収や強制労働を行い、ワイロも横行していたので、百姓は農業をいやがって都市部に逃亡し、耕作者が減って農村は疲弊していました。

大交易時代の栄光は去り、それまでの「交易型」の国家運営もできなくなっていました。借金は年々増加して財政は極度に悪化、国の中心であるはずの首里城が火災で焼失しても、再建できないほどの財政状況でした。そして追いうちをかけたのが対外情勢です。1644年、「中華」である超大国の明朝が滅亡し、「夷」であるはずの女真族(清)が政権をにぎるという驚がくの事件が起こります。明清の内乱で一時的に中国への朝貢貿易もできなくなり、事態は混迷の度を深めていました。それまでの価値観は崩れつつあり、琉球の誰もが明日のビジョンを描けずにいたのです。

このままでは琉球は内部から崩壊してしまう。羽地朝秀は危機感を抱いたにちがいありません。1666年、羽地は国政の最高ポストである摂政(せっせい。琉球語で「お世おわつかい」という)につくと、強力なリーダーシップのもとに琉球の構造改革に着手しました。しかし、いつの時代でも新しい試みにはそれまでのやり方を守ろうとする者からの反対があるようです。羽地の改革も旧来の方法を守ろうとする抵抗勢力の激しい反対のなかですすめられました。

参考文献:高良倉吉「琉球王国の展開」(『岩波講座世界歴史13』)

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