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2006年4月25日 (火)

続・小林よしのり『沖縄論』に思うこと(2)

小林よしのり氏が『沖縄論』で主張した歴史論は、実はそんなに目新しいものでありません。小林氏はご存じないでしょうが、1980年代、琉球の歴史の評価をめぐって「琉球王国論争」という論争が行われたことがあります。琉球も結局はもともと「日本」の一部、一地方政権にすぎない、とする小林氏とほとんど同じ意見を持つ論者の主張に対し、歴史研究者の高良倉吉氏は厳密な歴史資料の分析から琉球の独自性を立証し、琉球否定論者を完全に論破しています。小林氏の歴史論の骨子は20年前にすでに論破されたものなのです。しかもこの論破された論は都合のいい部分だけ「おいしいとこ取り」された最新の研究で“粉飾”され、リニューアルしています。

ことわっておきますが僕は沖縄独立論者ではなく、現在の体制を否定するつもりはありません。しかし、沖縄が超歴史的・必然的に「日本」固有の領土であったとする小林氏の主張には承服できません。明治になるまで琉球王国は「日本国」に帰属した事実は一度もありません。もともと同一民族だから、両文化に親近性があるからという理由で、実効支配される以前までさかのぼって領有権を主張できるのであれば、同じ論法でいけば台湾は中華人民共和国の領土ということになってしまいます(もちろん小林氏はそう言いません。ここに『台湾論』と『沖縄論』との矛盾があります)。琉球が「日本国」に編入されたのは国際社会のパワーゲーム、政治的な変動による結果、そうなったにすぎないのです。

現在の日本社会に沖縄がその構成員として参加していることに異論はありません(その点で米軍基地などの沖縄問題は沖縄だけの問題ではなく、日本国全体の問題としてとらえ解決すべきものではあると思います)。しかし、日本社会は太古から“国のカタチ”が確定していたのではなく、多様な経緯をふくみながら歴史的に形成された結果として今の姿があるわけで、薩摩の征服を「同民族の外圧による改革」だとか、明治の琉球処分をして「再日本化」とする小林氏の論は歴史を軽視した、しかもすでに破たんしている陳腐な議論と言わざるをえません。

では琉球・沖縄の歴史はどう評価すべきなのか。ちょうど小林氏が書いた『台湾論』にしっくりくる一節があったので、少しばかり改変して引用してみましょう。

日本、中国、アメリカ…沖縄にやって来たこれらの「外来者」たちは沖縄人に何を残しただろう?沖縄人の気質・住民性にどんな影響を及ぼしただろう?いくら外来者が支配しても…沖縄人はいた。沖縄人は育った。沖縄人になった。沖縄人とは何か?それは血筋を辿っても出てこない。自らの地域の歴史に目を開くことによってのみ明らかになるのである。(小林よしのり『台湾論』163ページ。原文「台湾人」の部分を「沖縄人」に改変)

最後に小林よしのり氏に一番言いたいこと。琉球・沖縄の歴史を語るのであれば、伊波普猷をはじめとした沖縄研究者たちが営々と築きあげてきた成果のおいしいとこだけ頂戴して利用するのではなく、もっと彼らに敬意を払ってほしい。少なくとも沖縄“論”を自負するのであれば、情報を正確に把握し理解することを何よりも大切にしてほしい。思想信条に関係なく、正確な情報をもとに考察するのが「論」です。それがなければただの「感想」にすぎなくなります。以上。

※追記:小林よしのり氏の反論に対する応答は【こちら】をご参照ください。

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2006年4月23日 (日)

続・小林よしのり『沖縄論』に思うこと(1)

先日、雑誌『SAPIO』に連載されている小林よしのり氏の「新ゴーマニズム宣言」を読む機会がありました。小林氏はそのなかでネット上に流れる「情報」を批判し、さらに『沖縄論』に対する否定的な反応に対して、小林氏の沖縄に対する「感受性」や「心」を読みとれず「情報」の揚げ足とりに終始していることを書いています。小林氏は「『ゴー宣』を読む時は「情報」のおいしいとこ取りだけ、するんじゃない!自分の知性で行間に込めたものまで認識して「知識」とせよ!」と「ゴーマン」をかましています。

以前、僕のブログでも小林氏の『沖縄論』に対して批判的な意見を述べたことがあります。小林氏からすれば僕の批判は「情報」と「知識」の区別がつかず、ネット上で「情報」を発している「若手」の揚げ足取りだと感じることでしょう。小林氏が僕のブログを読むはずもないでしょうが、これを機会に『沖縄論』の何が問題なのかを少し具体的に述べたいと思います。

僕は小林氏の『沖縄論』について、その主張の是非はともかく、日本国の安全保障の根幹であるはずの沖縄に無関心のヤマト(日本本土)の人たちに問題提起をした点については、率直に評価したいと思っています。では『沖縄論』の何が問題なのか。それは小林氏が沖縄、とくにその歴史について自身の都合のいいところだけ「情報のおいしいとこ取り」をしていることに他なりません。

細かい「情報」の誤りについては数多くありますが、ここではいちいち指摘するつもりはありません。以前にも書いたとおり、一番の問題は小林氏の沖縄に対する根本的な理解・評価の部分です。小林氏は『沖縄論』を書くにあたり、沖縄に関する基本的な文献をひとまずは読んでいます。にもかかわらず、これらの文献を読んでなぜ何十年前に使い古されたような主張が出てくるのか不思議でなりません。小林氏の沖縄の歴史についての評価は、ごく簡単に要約すれば、沖縄は歴史的に「日本」の領土であり、「純粋な日本」が残っている。独自性は日本国内の「お国柄」程度にすぎず、「日本」への同化(小林氏がいうには再日本化)は必然性があったというものです。沖縄は「日本」であることに価値があり、だから過重な負担を強いられ本土に無視されている沖縄のことを考えろ、ということでしょうか。

ひとつ例をあげましょう。「情報のおいしいとこ取り」の最たるものは、伊波普猷が述べた「琉球処分は一種の奴隷解放なり」という言葉の引用です。小林氏はこの言葉を「琉球の日本編入は必然であり、琉球処分はかつて分かれた同胞が再び一つになった民族統一である」との持論を補強するために引用しています。

伊波の「奴隷解放」発言について小林氏は表面的な理解しかしていません。伊波は琉球と日本との親近性に言及しつつ「琉球・沖縄」の独自性・主体性も強く主張しています。あの時代、「日本の中の沖縄」という避けがたい現実にありながらも、どうすれば沖縄が沖縄らしくあることができるのかを考えたのが伊波普猷の真意だったと思います。さらに発言の背景には、当時の沖縄社会における鹿児島閥の官僚や鹿児島商人の専横があります。「奴隷」状態、すなわち薩摩藩の搾取に対する伊波の糾弾は現実社会への批判とも重なっていたのです。「奴隷解放」発言はこれらのことをふまえた上で読まなくては彼が本当に言いたかったことは理解できません。そもそも伊波が唱えた薩摩支配下の近世の琉球が「奴隷」状態だったという説は近年の研究では全く否定されています。

小林氏は、終生「沖縄」と格闘した伊波の思想的営みに思いをいたすことなく、彼が述べた文脈を全く無視し、都合のいい「情報」として自説の補強に使っています。これでは伊波がかわいそうです。小林氏は自らの知性で伊波が行間に込めた「思い」を読み取るべきだったのではないでしょうか

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2006年4月19日 (水)

那覇にUFOあらわる

地球外生命体や幽霊などの不可思議な怪奇現象は、未知なるものに好奇心を持つ多くの人々の興味をひいています。沖縄でも那覇市内の上空に青白い光線が現れ、UFOでは!?との問い合わせが気象台などに多数よせられ、「那覇市内でUFO騒ぎ/正体は気象観測光線」とニュースになったことがあります(沖縄タイムス1997年11月24日)。実はこのような騒ぎと同様に、大正元年(1912年)8月には那覇に未確認発光体が出現して大騒動になった事件がありました。その模様は当時の「琉球新報」紙上で連日報道されています。

事件の場所は那覇の泉崎(現在の県庁一帯)で、第一発見者は仲毛(現在の那覇バスターミナルあたり)の比嘉さん一家。7月30日の晩、夕涼みに2階から外を眺めていると、砂糖樽検査所の戸から丸い発光体が出現したというのです。発光体は分かれたり合体したりして戸を出入りし、大きな発光体が小さな発光体を連れて出てきて、次の瞬間バラバラになり上空へ消えていったといいます。比嘉さんは驚き、近所の人に告げて次の晩も出現場所を観察していると、同時刻にまたもや発光体が出現。当初は比嘉さんの話を疑っていた近所の人々ですが、さらに3日目の同時刻に発光体が出現するのを目撃するにおよび「これはホンモノだ!」と確信し、ウワサがウワサを呼んで大騒動になってしまいます。

比嘉さん宅のある仲毛海岸はヤジウマが殺到し、夜10時頃まで怪光を見ようとする人々で連日大混雑となります。しかし発光体はいつまで待っても一向に現れません。ついには警官も出動して騒ぎの沈静化をはかりますが、騒動は静まるどころかさらに広まり、今度は泉崎橋に発光体が出るらしいというデマも流れて人々は泉崎橋にも集まり、発光体が現れるのを今か今かと待ちかまえる始末。出現場所付近の住民は奇怪な事件に身の吉凶を案じて各所の易者(おそらくユタ)に相談する者が続出し、火の玉は亡霊のしわざとして祈祷が行われます。騒ぎは出現場所の地中から人骨が発見されるにいたって頂点に達します。この人骨は小児の骨で、付近で材木商を営む平良某が埋葬したものらしいと当時の記事にあります。

このオカルト騒ぎに影響を受けたのでしょうか、琉球新報は事件の翌日から「怪談奇聞」と題する心霊体験談を連載します。このコーナーは読者から怪奇体験を募集するものでした。新報は「実体験でも伝聞でもよいから本社の怪談奇聞係宛てに投稿をお願いします」と東スポばりの連載を開始してしまうのです。

さらにビックリするのは、この怪奇体験コーナーに寄せられたのが、何とあの伊波普猷の話。「伊波文学士の実話」として祖父の心霊体験が述べられています。王国時代、祖父の友人が航海の途中で暴風にあって溺死し、彼の幽霊が別の知人の母に憑依して伊波の祖父の前に現れたという話です。おそらく伊波普猷も発光体騒ぎを見聞して、興奮さめやらぬなか知人に自身の怪奇談を熱っぽく語ったものが投稿されたのでしょう。本人が投稿していたら面白いですが…いずれにせよ、当時の沖縄での超常現象に対する熱狂ぶりが伝わってくる話です。

参考文献:「琉球新報」大正元年8月4日~23日

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2006年4月11日 (火)

ブログ開設1周年

今日は「目からウロコの琉球・沖縄史」を開設して1周年になります。

あっという間の1年でした。ふりかえってみると、記事の総数は52、基本的に週1回のペースで更新しています。よくネタ切れせずにコンスタントに続けられたと思います。アクセス数も当初はそれほどでもありませんでしたが、ヤフーの登録サイトに選ばれた直後は1日4000アクセスを記録しました。現在は1日200アクセス前後に落ち着いていますが、マイナーな内容にもかかわらず、毎日これだけの人々がこのブログを訪れてくださっていることに感謝です。

ブログを開設したきっかけは、これまでに明らかにされた琉球・沖縄史の豊かな歴史像が一般の方々に広く伝わっていないように感じたことでした。ネット上で書かれている琉球・沖縄史の情報は、僕が確認したかぎりではほとんど教科書的な通史、また十分に検証されていない内容しかありませんでしたし、ましてや当時、沖縄の歴史を専門的にあつかったブログは皆無に近い状況でした。誰もが簡単に見ることのできるブログで公開することが一番てっとり早く、また効果的だと考えて「目からウロコの琉球・沖縄史」を始めたわけです。

もしかしたら、このブログをのぞいた歴史研究者の方のなかには、他人の研究成果をネタにしてブログを書いていることに批判的な意見もあるかもしれません。歴史研究界ではあまりにも常識すぎる内容ですし、こうしてネットを通じて世に発表することに意義を感じられないかもしれません。

このブログは例えて言えば商品のカタログ、もしくは試供品のようなものだと僕自身は考えています。ここでは様々な商品(これまでの研究成果)をエッセンスのみ紹介して、興味があれば参考文献にあたっていただく、という具合です。もちろん試供品(ブログの記事)だけを楽しむことも可能です。

以前にも書きましたが、歴史の専門家と一般の方々の琉球・沖縄史認識には大きなギャップが存在しているように思います。このブログはそのギャップを埋めるべく記事の更新を続けてきましたが、1年が経過してほんの少しだけその目標を遂げることができたのかな、と思っています。

沖縄は教科書やガイドに書かれているような、「悲劇の歴史」や「基地の島」、「癒しの文化」といった面だけで全てを語りつくせません。沖縄はもっと深く、豊かな歴史を歩んできたのだと思います。これからも「目からウロコが落ちる」琉球・沖縄の歴史を紹介していきたいと思います。今後ともよろしくお願いします。

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2006年4月 7日 (金)

それでも嵐にあった時

前回は船で旅立つ人々が安全に航海できるよう様々な「対策」をとっていたことを紹介しましたが、どんなに神さまに祈っても、やはり嵐に遭う時は遭ってしまいます。そんな時、彼らはいったいどうしたのでしょうか。

その対応とは…やはり「神頼み」です。船が遭難した場合、船中の人々は前回紹介した航海安全の神に対して、ひたすら助けてくれるよう祈っていました。運天按司朝英(うんてん・あじ・ちょうえい)の遭難の事例を見てみましょう。1819年、彼は鹿児島へ向かう途中、硫黄鳥島近くで暴風雨に遭ってしまいます。嵐のなか、朝英たちはまず船が沈没しないよう積み荷を捨て、全員が髪をバッサリ切って、ひたすら天に祈ります。遭難時に髪を切るという行為は東アジアで広く行われていた慣習だったようです。しかし嵐はやみません。

そこで次は聞得大君へ祈りをささげ、「無事帰れたら首里城の龍樋の水を献上します」と誓いを立てます。しかし無情にも暴風は吹き続けます。朝英はさらに普天間権現へ祈りをささげ、「無事帰れたら7日間参拝して感謝します。だから助けて」と約束しました。ところが、それでも嵐はやまず、それどころか風雨はさらに激しさを増し、とうとう船を転覆させないためにマストを折ってしまいます。もはや船のコントロールはききません。船は漂流し、飲料水もほとんど尽きてしまいます。

朝英、今度は弁財天に祈りはじめます。それでも足りないと思ったのか、さらには天尊(中国道教の神)を出してきて、「無事帰れたら焼香に行きますので、どうかお助け…」と必死で祈ります。ようやく朝英の祈りが神に通じたのでしょうか、その後天気は回復し、結局与那国島に漂着して助け出され、沖縄本島に戻ることができました。鹿児島へ向かうはずが、流れ流れて与那国まで行ってしまったのです。次から次へと嵐がやむまで、思いつくかぎりの神さまに祈り続けるのは節操なく見えてしまいますが、本人にしてみれば生きるか死ぬかの瀬戸際だったわけですから、しかたありませんね。しかし朝英はその後、全ての神々との「約束」を果たしたのでしょうか。

注目されるのが聞得大君への祈りと「首里城龍樋の水を献上する」という約束です。聞得大君は琉球世界の祭祀をつかさどる、神女(ノロ)の頂点に立つ存在でした。琉球の神々に王国の平和や五穀豊穣を祈ったほか、航海安全も祈願していました。聞得大君は祭祀の主宰者としてだけではなく、「航海安全の守護神」そのものとしても考えられていました。首里城の龍樋とは瑞泉門近くから湧き出る泉のことです。聞得大君に「遭難救助」の感謝を表わす際には、龍樋の水を聞得大君御殿まで持っていって献上するのが慣例になっていたようです。

実は、この龍樋の水献上の儀式はマニュアル化されていて、聞得大君に祈って助かった遭難者はそれにのっとってスムーズに(きわめて事務的に?)儀式をとり行いました。マニュアル化されているということは、それだけ遭難者が続出し、多くの者が聞得大君のもとを訪れていたということを意味します。

聞得大君に龍樋の水を献上しに来たのは琉球人だけではありませんでした。薩摩と琉球を行き来する薩摩船の船頭も訪れていました。彼らもまた遭難時に琉球の「航海神」である聞得大君に助けを乞い、助かった者たちでした。生き死にの際(きわ)には、あれはどこの神さまだとか、何宗派だとか細かいことは言ってられなかったというわけですね。

参考文献:豊見山和行「航海守護神と海域」(尾本惠市ほか編『海のアジア5』)

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