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2006年3月10日 (金)

「万国津梁の鐘」の真実

Cimg1148 万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね)【画像。クリックで拡大】――琉球王国の交易立国を高らかに宣言した、この鐘に刻まれた文はよく知られています。沖縄県庁の知事公室にもこの文を写した屏風が置かれ、沖縄サミット会場も「万国津梁館」と名づけられるなど、海外に雄飛する沖縄の象徴として現代でも使われる名文句です。

≪琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀をあつめ、大明をもって輔車となし、日域をもって唇歯となす。この二中間にありて湧出せる蓬莱の島なり。舟楫をもって万国の津梁となし、異産至宝は十方刹に充満せり≫

意味:琉球国は南海の景勝の地にあって、朝鮮のすぐれたところを集め、中国と日本とは非常に親密な関係にある。この日中の間にあって湧き出る理想の島である。船をもって万国の架け橋となり、珍しい宝はいたるところに満ちている。

ここまでは有名な文です。琉球王国の性格をよく表現した文章だと思います。しかし、万国津梁の鐘に刻まれた文はこれで終わりではありません。実は、上にあげた文句は全体の4分の1にも満たない文量なのです。万国津梁うんぬん~はあくまでも前フリにすぎません。つまり、この鐘が記している本当に言いたいことのたった一部しか表わしていないのです。

では残りの文章はどのようなことが書かれているのでしょうか。非常に難解な漢文で書かれているので、わかりやすくおおざっぱに要約すると、「…偉大な尚泰久王は仏法を盛んにして仏のめぐみに報いるため、この鐘を首里城の正殿前にかけた。法を定め世の人々を救い、王統の長い治世を祝う。相国寺の渓隠和尚に命じて鐘に刻む文を作らせた。~以下、仏教用語を使って、尚泰久王が民を救い平和な世の中にするという内容~」という感じです。つまり、この鐘は海外交易の繁栄をうたったというよりも、「琉球が尚泰久王のもとで仏教を盛んにして平和になった」ということを伝えたものなのです。

文の作成者は相国寺の渓隠(けいいん)和尚。鐘を製造したのはヤマトの鋳物(いもの)職人、藤原国善です。当時、琉球は仏教を保護し、ヤマト禅僧たちがさかんに来航して多くの寺院が建てられていました(ヤマト坊主は外交官を参照)。渓隠和尚はヤマト禅宗の影響下にあった琉球寺院の禅僧で、また藤原国善は北九州出身の鋳物職人と考えられています。鐘の文章はヤマトの仏教思想を持つ人間によって作成され、鐘はヤマトの職人によって製造されたものなのです(もちろん尚泰久王の考えに沿うものであったことは間違いないですが)。

ところで鐘の文章の「三韓の秀をあつめ~」の部分を抜き出して、第一尚氏王朝が朝鮮の出身であることを主張する説も一部ありますが、この考えには全く同意できません。文章がどのような思想のもとに、どのような目的で、誰によって書かれたのかを考えれば、そのように主張することはできないと思います。

参考文献:沖縄県教育委員会文化課編『金石文』

追記:琉球王「朝鮮系倭寇」出自説に関連する記事は【こちら】、「装われた三山」説については【こちら

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コメント

 記事拝読させていただきました。毎回のお話しもさることながら参考文献の渋さにチェックを入れさせていただいております。今回は「金石文」ですか~。渋いところで好きですね。
 読まれている論文や報告書からとらひこさんの勉強ぶりが伝わります。これからも頑張って下さい。

投稿: 嵐の中の進貢船乗船中 | 2006年3月12日 (日) 14:44

>嵐の中の進貢船乗船中さん

恐縮です。まあほとんどの参考文献はななめ読みで、浅薄な議論になってしまうんですけどね。もう少し深く掘り下げられればと思っています。頑張ります。

投稿: とらひこ | 2006年3月14日 (火) 22:58

万国津梁の鐘の銘文のことですが、あの銘文全体が渓隠和尚のものではなく、後半部分の詩歌の部分のみが渓隠和尚の作になるのではないですか。わたしも自信がないのですが、ぜひご確認のほどお願いします。

投稿: 沖縄フリークス | 2007年5月14日 (月) 14:52

>沖縄フリークス さん
ご指摘の部分に関してですが、確かに銘文は詩歌とそれ以外の二つの構成になっています。しかし「万国津梁の鐘」は全体が渓隠和尚の作によるものです。当鐘だけではなく、古琉球期に鋳造された鐘の銘文全部を確認すればわかります。

例えば「旧天竜寺の鐘」銘文は文の構成が「万国津梁の鐘」とほぼ同じなのに対し、詩歌の部分が安潜(渓隠)和尚、文全体を承琥和尚が記しています。

天竜寺の鐘(~命相国安潜為其銘銘曰~、開基沙門承琥謹記)
万国津梁の鐘(~命相国住持渓隠安潜叟求其銘銘曰~、住相国渓隠叟誌之)

つまり「万国津梁の鐘」はその鐘単体だけで見れば、詩歌の部分のみが渓隠和尚の作になるように見えますが、同時期の鐘全てと比較すれば、文全体が渓隠の作であることがわかるのです。万国津梁の鐘は、詩歌を渓隠が作成して、鐘の銘文も渓隠が書いたということですね。

コラムで僕が「銘文は渓隠和尚の作」と書いたのはそれらを根拠にしています。

投稿: とらひこ | 2007年5月14日 (月) 16:29

やはり、三韓の・・・が気なっています。朝鮮との関係がなかったとするならば、何故このような文言が最初に語られねばならないのかという疑問が湧きます。これについてはどのようにお考えですか。

投稿: あすく | 2007年7月22日 (日) 14:29

>あすくさん

「三韓」という語句が最初にあるから、という根拠が第一尚氏朝鮮出身説を裏付けることには、残念ながらならないと思います。

まず「最初に“三韓”の語句を挙げているから重視している」という考え方自体が適切なのかということです。文書の構成で最後に重要な存在を挙げるものだってあります。単に三者を並列にしている可能性だってあります。このことを解明するには、当時の文書形式、文を書いた人物の思想や背景(具体的には禅宗の五山文学)を考慮しなくてはいけません。それが解明されていない以上、この根拠は残念ながら「印象論」の域を脱していないのです。

ちなみに「三韓」という表現は、中世日本で広く流布しはじめた「神功皇后の三韓征伐」説話との関連が可能性として非常に高いです。また漢文の表現を素直に読めばそう解釈できるという意見も、この漢文がネイティブではない日本僧らによって書かれた変則的な漢文である可能性を考慮していないので、従えません。この漢文は「素直」に読んではいけないのです。

当時、琉球と朝鮮との関係は全くなかったわけではありませんが、交流はほとんどが博多商人や対馬の海上勢力を仲介するかたちで行われています。第一尚氏は自らを朝鮮出身だと自称したことも、それをうかがわせる確かな史料もありません。この「三韓」説を援護できるような説得力を持つ材料はないのです。

話としては面白くロマンをかき立てられるかもしれませんが、「印象論」のみでこれらの答えを導き出すのは、学説としては飛躍しすぎています。研究界での評価もおおむね僕と同意見です。

僕は突拍子もない説だから頭ごなしに否定してるわけではなくて、根拠となっている史料自体を正確に分析したうえで、同時期の様々な資料・学説・歴史的状況を総合的・客観的に検討したうえでの結論です。

とらひこはロマンのないヤツだ、とお気を悪くされるかもしれず申し訳ありませんが、研究とはこういう無味乾燥なものなので悪しからずご了承ください。


投稿: とらひこ | 2007年7月22日 (日) 18:21

 早速のコメントありがとうございました。しかし、残念ながら、私の質問の趣旨とはずれがあります。私も三韓の文言のみをもって尚氏の出自を議論することは飛躍し過ぎと思います。ただ、この文言が書かれている以上、なぜ書かれているのかということが考えられるべきだと申し上げているのです。仮に修辞的なものだとするならばそうであることが証明される必要があります。「素直」に読めばばどう考えても三韓が主としか読めないではありませんか?ならば「素直」に考えてはいけない理由は何なのかが明示される必要がありますが、とらひこさんのお答えでは残念ながら私は説得されるには至りません。付言すればこれに関する研究がなされていないこと自体が問題なのではないでしょうか。
 ご存知とは思いますが、「琉球王国と倭寇」(吉成直樹・福實美著)では、おもろの分析から尚氏と倭寇・朝鮮の関係を指摘しています。倭寇との関係はともかく朝鮮との関係についてはシロートの私には十分評価できませんが一定の説得力はあります。このような説に対して問題ありとするならば、シロートでも納得できるような反論がなされるべきだと思っています。


投稿: あすく | 2007年7月22日 (日) 21:29

>あすくさん
僕が言いたかったのは、なぜ書かれているのかという問題について、安易に結論を下すのではなく、周辺の状況を考案したうえで結論を出すべきではないかということです。

これらの文章がなぜそう書かれているかについて説得力を持つ論はこれまで出されていないというのが先の趣旨です。

あすくさんは「「素直」に読めばばどう考えても三韓が主としか読めないではありませんか?」とのことですが、それに対する僕の答えは「漢文の表現を素直に読めばそう解釈できるという意見も、この漢文がネイティブではない日本僧らによって書かれた変則的な漢文である可能性を考慮していないので、従えません。」と述べました。この答えだけでも充分理由になっていると思いますが・・・

吉成・福氏の論も読みましたが、残念ながら説得力があるとは全く思えません。『おもろさうし』は16~17世紀に成立したものであり、第一尚氏の時代のもの(14~15世紀)として使用することはできません。他の歌謡もしかりです。現在の研究では、『おもろさうし』をそのまま歴史資料として使用するのは危険であるという評価がされています。

『おもろさうし』はあくまでも歌謡であり、歴史資料として使うならばそれ相応の史料批判の手続きをふまえなくてはいけません。これらの問題をクリアできない限り、『おもろさうし』を使用して「三韓」についての援護はできません。吉成・福氏の論はこれらの先行研究を充分ふまえたものではありません。よってこの論で挙げられた歌謡が第一尚氏時代のものであるという証明はできません。例えできたとしても、それらを裏付ける他の歴史資料は皆無であるというのが現状です。

以上から先のコメントで僕は「この「三韓」説を援護できるような説得力を持つ材料はないのです」と述べました。もちろん個人的に信じる信じないは自由だとは思いますが、これらの諸問題をクリアできない限り、この学説を支持できないというのが僕の考えです。

返す返すお気を悪くされたらすみません。しかし、歴史研究の末端にいる者として、このような説にはどうしても賛同できないことをどうかご理解いただきたく思います。もちろん説得力のある論であればもろ手を挙げて賛同しますが。

ちなみに僕の主要研究テーマは倭寇をはじめとした海域アジアの民間交易勢力と琉球についてです。論文も出ていますのでそちらもご参照いただければ幸いです。

●「琉球那覇の港町と「倭人」居留地」(小野正敏・五味文彦・萩原三雄編『考古学と中世史研究3  中世の対外交流』高志書院、2006)

投稿: とらひこ | 2007年7月23日 (月) 00:57

銘文の「三韓の秀」について気になったので少し調べてみました。

そこで「三韓の秀をあつめ」が何を指しているか、具体的には高麗版大蔵経のことではないかと思いつきました。

高麗版大蔵経は全ての仏教経典の集大成で、朝鮮王朝が秘蔵する世界的な「至宝」であり、非常に入手困難な経典でした。琉球は1455年(万国津梁の鐘製作の3年前)、国王使として博多商人を朝鮮へ派遣し、この大蔵経を琉球史上初めて入手することに成功しています。

この大蔵経請来は当時の琉球にとって一大事件でした。琉球では尚泰久王のもとで仏教が全盛期を迎えていて、この時期に寺院や梵鐘が一気に作られていきます。仏教思想が深く浸透していた琉球にとって、大蔵経は物質的に貴重であるだけでなく、国家鎮護、つまり精神的な国家運営のために不可欠な大典でもありました。朝鮮王朝の至宝(三韓の秀)がこの時初めてもたらされた結果、仏法の隆盛を記念して首里城という中心に「万国津梁の鐘」が造られたと考えられるのです。

本文コラムでも述べましたが、この鐘は仏僧が銘文を起草し、ヤマト鋳物師によって作られた寺院に掛ける形式の梵鐘です。内容の骨子も仏教隆盛をうたっています。当時の社会的・歴史的背景からも決して矛盾しません。大蔵経請来と鐘鋳造の時期的な変遷も整合します。

もちろんこれはあくまでも「仮説」です。しかし限定された文字上の解釈から漠然とした朝鮮と琉球の関係を導き出した先の説よりもいくぶん説得性があるように思いますが、いかがでしょうか。

投稿: とらひこ | 2007年7月23日 (月) 16:33

 はじめまして。
 とらひこさんが、『おもろさうし』が歴史資料として使えるかどうか、史料批判の問題もあり、はなはだ疑問である、「三韓」の文言に関して第一尚氏がみずから朝鮮の出自を自称したことはない、という二つの点について、琉球史研究者を自称する方々に苦言を呈したいと考えます。
第一に歴史学のほうで、それでは『おもろさうし』を歴史資料として利用できるか、突き詰めて研究してきたことはあるのかということです。それをせずに、放置してきておいてきたからこそ(つまみ食い的に都合のよいおもろを利用する歴史家はたくさんいます。これは史料批判をしているのでしょうか。自分の考えと合致するおもろだから利用は許されるのでしょうか)、門外漢と思われる人が蛮勇をふるっておもろを歴史復元の俎上に載せることになるのではないですか。みずからの怠慢を棚に上げて、他人を攻撃しているようで、あまり愉快な感じはしません。批判するのであれば、おもろは歴史復元に利用できないとご自分で明確にすべきです。
 第二に、吉成・福著の本は読みましたが、あの本のどこにも第一尚氏は朝鮮人だとは書いてありまん。強いて言えば、王権中枢、あるいはその周辺に朝鮮人がいるとは確かに書いてあります。そして朝鮮半島とのかかわりを強く押し出していることも確かです。しかし、本の冒頭には、倭寇についての説明があり、日本、朝鮮からドロップアウトした人々の複合体としています。朝鮮的な要素が含まれるのは、倭寇が関与したとすれば、当たり前ではありませんか。これは誤読に基づく批判と言われてもしようがありません。
 1985年頃出た、『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』という本のなかで、高良倉吉先生は、琉球における倭寇の衝撃ということを、対談の中で話しておられます。しかも、稲、鉄は倭寇が関与してもたらした可能性についても言及しておられます。また、久米村の中国人はゴロツキの集まりだったという主旨のことも述べています。もし、史料がなくて、そう思っていたとしても、こうした議論を引っ込めざるを得ないとすれば、では一体歴史学とは何か、ということになってしまいます。とらひこさんが言うように歴史学とはあくまでも実証の問題で無味乾燥にならざるを得ないと本当に考えているのならば、それはあまりにも一面的なものの見方ではないでしょうか。実証、史料批判とは何か、とは難しく、史料批判に基づく史料を利用した実証的研究であっても、すぐに議論が崩壊することはよくあります。
 最後に、自分の見解を述べるに際して、「研究界の見解も僕と同意見だ」という言い方は潔くないですね。自分の背後にたくさんの味方がいるという感じを与えます。研究はたったひとりでする孤独なものではないですか。
 わたしは歴史学アウトサイダーではありますが、研究とは「無味乾燥だ」とだ断言する気には到底なれません。

投稿: 寄らば大樹の陰 | 2007年9月18日 (火) 11:31

 追記です。「三韓の秀を鍾め」の「鍾」の字は「鐘」と同義であり、もとの意味は「鐘のもとに人が集まる」だと学生時代に教わった気がします。(記憶違いかも知れません)だとすれば、三韓の優秀な人たちが集まったという意味になるかもしれません。この点は改めて調べてみたいと思います。

投稿: 寄らば大樹の陰 | 2007年9月18日 (火) 11:48

>寄らば大樹の陰 さん

誤解しないでいただきたいのは、僕は『おもろさうし』を歴史資料として使用すること自体を疑問視しているわけではないということです。先に僕が批判したのは、歴史資料として使用する際に厳密な手続きを経ないで安易に使用している点です。別に『おもろさうし』を使うことがダメだと言っているのではありません。吉成・福氏の論がつまみ食い的にオモロを利用している点こそを批判したのです。僕の文をもう一度冷静に、よく読まれてください。

ご指摘のように歴史学がオモロを史料として使用することに慎重であることは事実です。それは怠慢なのではなく、かつての先学があまりにも無批判にオモロを使いまくったことに由来しています。ただし、昨今は池宮正治氏をはじめそれを乗り越えようとする研究も出始めています。門外漢の方々が蛮勇をふるっておもろを歴史復元の俎上に載せることは歓迎です。ただそれが説得性を持つのか、きちんとした検証をふまえているかは別次元の問題でしょう。少しその点を混同しておられはしませんか。

吉成・福氏は「琉球王権の性格と『おもろさうし』」(『沖縄文化研究』30号)のなかで『琉球王国と倭寇』のなかで取り上げた一連の資料をあげ「第一尚氏の出自が朝鮮出身であること」をちゃんと主張しています。それに僕は琉球と朝鮮が関わっていなかったとは一言も言ってません。倭寇は海域アジアにおける多民族集団であり、その点について倭寇と琉球についての研究をしている僕は他の研究者よりもより深く理解しているつもりです(というか倭寇が多民族集団であることは今や常識ですが)。自らの論文にもそれは記しています。もう一度僕の文章を丁寧に読んでもらいたいのですが、僕が批判したのは「第一尚氏が朝鮮出身であること」、この一点です。よってあなたの批判は誤読・誤解にもとづくもので当たらないと思います。

「「研究界の見解も僕と同意見だ」という言い方は潔くないですね。」にいたっては言葉のあやでしょう。僕がそこにこめた意味は、研究者としてきちんとした検証をふまえていけばあのような意見にはならないということです。他意はありません。

お願いします。感情的にならずに、もう少し丁寧に僕の文章を読んではいただけないでしょうか。

「三韓」の文章については、今後新たな分析や論が出てくることはいいと思います。先のコメントでも述べましたが、説得性のある意見なら僕は大歓迎です。思いつきや恣意的な史料引用ではなく、慎重かつ厳密な分析で結論を導き出すこと、それこそが研究にとって大事なことだと僕は思いますから、そのうえの結論ならば僕は自論に固執せず撤回するつもりです。

投稿: とらひこ | 2007年9月18日 (火) 12:22

さっそくの返信ありがとうございます。
 わたしも『沖縄文化研究』30のご指摘の論文は取り寄せて読んでおります。吉成・福著の本はこれまでの論文のアンソロジーという性格を持ち、若干の書き下ろしが加わっているようです。この論文には確かに「第一尚氏の出自は朝鮮半島にあることをみずからが語っている」という主旨のことが書かれています。しかるに、その後、著作となったものにはそのような文言は削除されています。これは、憶測ですが、取り下げるべき理由があったのでしょう。とすれば、とらひこさんは、新しいものではなく、古いものに対して、批判を加えていることになります。それはフェアですか。
 それから恣意的な資料の引用という点について、琉球史研究者の方々は、史料の恣意的な引用をしていないとは思えないのですが。いかがでしょうか。また、恣意的な解釈はしていなのでしょうか。
 わたしはおもろの門外漢ですが、吉成・福著の後半には、おもろの謡う歴史は「真実(人々の信じる歴史?)」であって「歴史学でいう事実」とは一線を画しているよな記述があります。その点をとらひこさんはどのようにお考えなのでしょうか。
 わたしは、最近の琉球史研究の「沖縄中心主義的な」記述のあり方に辟易している者です。ですから、この本が出た時は、方法、論じ方に問題はかなりあるが、ある種の爽快さを覚えたものです。この本を丹念に読み、弁護に回るというのもそうした思いが根にあります。さらに丁寧な議論は当然求められるでしょう。
 さきほどの返答に、研究界では認めがたい見解だということがありましたが、その研究界とはどこの研究界ですか。少なくとも、わたしの周辺では賛否両論です。ひとつは、とらひこさんと同じ立場、他方はやはり「沖縄中心主義」への批判が根にあるようです。

投稿: 寄らば大樹の陰 | 2007年9月18日 (火) 13:11

>寄らば大樹の陰さん

やはり少し的がずれたご批判をされているような気がします。「第一尚氏朝鮮出自説」を撤回されていたとは初耳でしたが、確かに自説を訂正されているものに対し旧説を批判するのはフェアではないと思います。その点は知らなかったので僕の不徳のいたすところです。

しかしそのご指摘自体は僕がした「朝鮮出自説は誤っている」ということへの反論にはならないと思いますよ。ともかく以後はこれらの説を批判する必要はなくなったということで終了いたします。

恣意的な引用は良くないことです。琉球史研究者であろうとなかろうと僕は批判しますし、自分でも注意しています。それは琉球史研究者そのものへの批判とは何の関係もないのでは?彼らが特段に恣意的引用をする研究を特徴とする集団ならば批判されてしかるべきでしょうが。

それに「沖縄中心主義」の批判がなぜここで出るのかも不思議です。そのような主張と僕は一線を画します。沖縄は沖縄だけで成り立っていたのではなく、広く海域アジア世界の連動のなかに位置付けられていたという視点のもとに研究を進めています。最近の「海域史研究」という学界分野での琉球の位置付けを探る議論です。なので、僕が「沖縄中心主義者」だというのは全く根拠がありません。非常に心外です。そういう意識は僕は持っていません。僕の研究姿勢についてそのような批判をされるなら、まず僕の最新論文等を読んでからされるのがフェアではないでしょうか?あなたの主張は一貫してないような気がします。

あなたはいったい僕の何を批判されようとしているのか解しかねます。この手の言葉のあやをあげつらったり、感情的な議論はあまり介入したくありませんのでもう終わりにしましょう。

投稿: とらひこ | 2007年9月18日 (火) 13:43

感情論ですか。そういわれればそうかもしれませんね。

1 第一尚氏=朝鮮半島という説を撤回したというのは初耳というのは、ではここで話題になっている本を斜め読みさえせずに批判をしていたということでしょうか。

2 とらひこさんを「沖縄中心主義」だとは思っておりません。『目からウロコ・・・』は幅広い学識と、広く目配りされたもので、「中心主義者」の面影は微塵もありません。たとえば、カムィ焼の経営主体は沖縄島の勢力であるという考えは今も根強くあり、王国形成には内的発展が大きかったという現在の琉球史研究にあって、外来者の問題を重視したのはそれなりに意義があるのではないかということを言うために「沖縄中心主義」を引き合いに出したまでです。

3 わたしは一体、あなたの何を批判されようとしているのかということですが、それは1の問題に尽きます。読まずに批判するとは、方法、論じ方以前の問題ではないかということです。

投稿: 寄らば大樹の陰 | 2007年9月18日 (火) 14:46

>寄らば大樹の陰 さん

あれれ?いつのまにか論点がずれていませんか?あなたが問題にしてたのは、僕の批判がおもろを歴史史料として使用することを疑問視している、倭寇の実態をわかっていないという誤解・誤読にもとづくもので、「それは違う」と僕は答えたはずです。それで議論は終了だと思いますが。

あなたが新たに設定したところの(1)の問題については、これまた的はずれではないでしょうか?僕が朝鮮出自説を撤回された新論を確認していなかった批判はつつしんで受け入れますが(それできちんと訂正しました。これで議論は終了と)、僕は「朝鮮出自説」を分析した段階の論文はいちおうきちんと読んで批判したのです。「朝鮮出自説」が話題になっている本・論は読みましたよ。それに基づいたところの僕の論じ方がなぜ問題になるのでしょうか。

それにあなたが言うところの撤回とは、きちんと論者が訂正を明記されていたのではないでしょう。ただ書いてなかっただけと。訂正の理由も明記されてないのでは議論のしようがないではないですか。僕のチェック漏れがあったことは認めますが、それがただちに論じ方以前の問題になるとは飛躍しすぎではないですか。批判のための批判はよくないですよ。

僕のコメントをよく読まれていないようなので、もう一度引用しますと、

>「第一尚氏朝鮮出自説」を撤回されていたとは初耳でしたが、確かに自説を訂正されているものに対し旧説を批判するのはフェアではないと思います。その点は知らなかったので僕の不徳のいたすところです。

>しかしそのご指摘自体は僕がした「朝鮮出自説は誤っている」ということへの反論にはならないと思いますよ。ともかく以後はこれらの説を批判する必要はなくなったということで終了いたします。

ということです。

感情論にもとづいた不毛な議論はしたくありません。それは学術的な議論ではないからです(茶飲み話ならいいかもしれませんが)。あなたが僕についてどう評価しようとそれはかまいませんので、これにて終了ということで、よろしくお願いします。

投稿: とらひこ | 2007年9月18日 (火) 15:56

あなたはブログというかたちでご自分の意見を公にすることによって、一般の社会に開かれた公共空間をつくっていることになります。あなたが個人の意見を述べ、それに絡みつくものに対して、「感情論」はもうやめましょうでは済まないということをご理解していただきたい思います。傍目から見る限り、わたしは沖縄研究とは、今の段階ではすべからく感情論だと思っています。
そうした「感情論」から自由なはずのとらひこさんが、〈琉球史の第一人者に誉められた、などという台詞を口にするのは、何か、とらひこさなんが持っている研究者としての矜持とは異質なものを感じる〉ものがあり、少しばかり、絡んでみました。もっともとらひこさんが「感情論」から自由というのは、今日はじめて知ったことですが。世間には過敏に反応する人間もいるもののようです。申し訳ございませんでした。
 

投稿: 寄らば大樹の陰 | 2007年9月18日 (火) 16:31

正直に申し上げて、「寄らば大樹の陰」さんのコメントは的外れであるばかりか、とらひこさんに対して非常に失礼であり、第三者の目から見ても不愉快です。


まず「それにあなたが言うところの撤回とは、きちんと論者が訂正を明記されていたのではないでしょう。ただ書いてなかっただけと。訂正の理由も明記されてないのでは議論のしようがない」と、とらひこさんが書いているように、訂正を明記していない以上、吉成・福氏が旧説を撤回したのかどうかは定かではありません。

もし吉成・福氏が旧説を撤回していない(「第一尚氏は朝鮮人」説を保持している)のだとすれば、とらひこさんの批判は正当なものです。
逆に吉成・福氏が旧説撤回の意図があって、「第一尚氏は朝鮮人」という主張を本に書くのをやめたのだとしたら、撤回・訂正の仕方に問題があると言わざるを得ません。旧説の間違いをはっきりと認めたくないがゆえに、さりげなく記述を削除したと考えられるからです。この場合、旧説の誤りを明記せず、ごまかした吉成・福氏の姿勢に問題があり、とらひこさんに責任はありません。


それに「沖縄研究とは、今の段階ではすべからく感情論だと思っています。」などと根拠も無く決めつけることは、とらひこさんだけでなく全ての沖縄研究者に対して失礼です。

更に「「感情論」から自由なはずのとらひこさんが、〈琉球史の第一人者に誉められた、などという台詞を口にするのは、何か、とらひこさなんが持っている研究者としての矜持とは異質なものを感じる〉ものがあり」とのことですが、研究者もまた人間であり、感情を持たないロボットではありません。誰だって自分の行為を正当に評価されれば嬉しいし、不当にけなされれば頭に来るのです。重要なのは、研究を進め議論を展開し批判・反論を行うに際して、感情を交えることなく、あくまで論理的に思考を深めていくことです。自分の意見に反論する者を絶対に許容せず、言葉尻をとらえ揚げ足取りに終始する「寄らば大樹の陰」さんの絡み方こそが「感情論」なのであり、とらひこさんを批判する資格は全くないと愚考致します。

投稿: 御座候 | 2007年9月24日 (月) 00:14

別にその部分のみを抜き出して朝鮮半島由来だと言ってるわけではなかろうに。同意しない理由すら言わない。
論を撤回なんて初耳だね

投稿: たくや | 2008年11月 8日 (土) 19:53

>たくやさん
もう一度コメント欄のやり取りを読んでみてはどうですか。同意しない理由をちゃんと書いてありますが。日本語が読めないのでしょうか。

僕の記事に異論があるんでしたら、言葉尻をあげつらうのではなく、吉成・福説が正しいのだという根拠を持ってきちんと反論なさってください。それがなければただの「イチャモン」のレベルにすぎなくなります。対論もないのにわざわざこの種のコメントをする意味がわかりません。

投稿: とらひこ | 2008年11月 8日 (土) 23:29

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