球人に網巾をきせる
琉球と交流のあった中国の福建には、当地の沖縄では知られていないコトワザや、交流をうかがわせる言葉などが残っています。そのいくつかを紹介しましょう。
琉球と福建の交流がさかんだったのは、琉球船が中国に入る玄関口だったからです。福建の泉州と福州の港は、琉球の進貢船の寄港地となっていました。この進貢船とは明朝から公認された琉球王府の直営船です。琉球と中国との貿易は基本的に国家間の公的な活動に限定されていました。しかし、その裏では密貿易が行われていました。明朝は民間人が勝手に海外へ出向いて貿易することを禁止したのですが、中国沿岸部は土地も少なく、農業をするより貿易活動で生計を立てている人々が多く住んでいました。貿易が禁止されると彼らは生活できません。そこで貿易商たちは現地の役人と結託して、なかば公然と密貿易活動を行ったのです(彼らはのちに「倭寇」とも呼ばれます)。
密貿易は非合法なので記録に残ることは少なく、実態もよくわからないのですが、今日の福建にはある言葉が伝えられているそうです。それが「做琉球(ツォ・リウチウ)」という言葉です。「琉球貿易に出かける」という意味です。福建では禁令をやぶって海外に貿易に行く商人が多かったようで、「做琉球」もその名残りではないかと言われています。
また清代の中国には琉球に関する面白いコトワザがありました。16世紀、琉球国王を任命する中国の使者(冊封使)の副使に謝杰(しゃけつ)という人物がいたのですが、謝杰の親戚が使節に同行して琉球へ行ったそうです。彼は中国で網巾(中国人がつけるヘアーネット)を大量に買い込んで琉球で売りさばこうと試みます。しかし、琉球人の髪型はカタカシラという琉球独特の髪型で、中国人のように網巾をつける習慣はありません。当然、網巾は琉球で全く売れませんでした。このままでは大損です。そこで彼は謝杰に頼みこんだのでしょうか、謝杰は琉球に対してこう言います。「明の礼にならってお前たちが網巾を着けなければ、琉球国王を任命する儀式は行わない」と。驚いた琉球人たちは、われ先にと謝杰の親戚が持ってきた網巾を買い、網巾は完売してしまいました。職権乱用もいいとこですが…それ以来、福建では押し売りをすることや、無理やり人に何かをさせることを「球(琉球)人に網巾をきせる」というようになったそうです。
残された言葉から交流の歴史をさぐるのも、けっこう面白いかもしれませんね。
参考文献:高良倉吉『琉球王国史の課題』、原田禹雄『琉球と中国』
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