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2006年1月 9日 (月)

東郷平八郎と為朝伝説(1)

東郷平八郎というと日露戦争の際の連合艦隊司令長官で、ロシアのバルチック艦隊を破った人物として知られています。今回はこの東郷平八郎と沖縄、源為朝の渡来伝説の意外な関係を紹介します。

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沖縄本島北部の運天港を見下ろす丘には「源為朝公上陸之趾」と書かれた石碑があります【写真・上。クリックで拡大】。この石碑に書かれた文字、実は東郷平八郎によって書かれたものです。石碑の背面を見ると、大正11年(1922年)に建立されたことがわかります。石碑の材料には1874年に国頭の宜名真村沖で座礁したイギリス船のバラスト(船のバランスを取るため船底に置かれた石)が使われたそうです。

この石碑は、運天港に源為朝が上陸して、その子孫が琉球の王になったという伝承をもとにして作られたものです。源為朝の琉球渡来伝説は、日本人と琉球人は同じであるという「日琉同祖論」の根拠の一つとされています。

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石碑の台座部分には「国頭郡教育部会発起」とあります【写真・上。クリックで拡大】。この国頭郡教育部会は沖縄県教育会という教育団体の支部会で、明治天皇の講話資料(1913年)や『国頭郡志』(1919年)と呼ばれる郷土史を編集しています。編集の中心的人物には島袋源一郎という人物がいました。彼は国頭郡教育部会幹事・同郡青年会幹事として社会教育活動を行っていました。この時期の社会教育活動というのは、沖縄の人々に「日本国民」として忠君愛国の精神を叩き込むことです。『国頭郡志』も学術的な目的で書かれたものではなく、忠良なる“皇民”をつくるため愛郷心の育成を目的とした「郷土教育」の産物でした。島袋自身も郷土教育の目的を「愛郷心を拡充して愛国心に到達せしむ」と述べています。

大正期に入るとこのような郷土史編集が各地で活発となりましたが、これと同時期に国頭郡における「郷土教育」を主導した団体によって為朝上陸の碑が作られた事実は注目されます。運天にある為朝上陸の碑は、大正期に活発となった愛国心を育てるための「郷土教育」と関連して国頭郡教育部会によって企画され、沖縄県民が皇国の臣民であることを示す「日琉同祖論」の記念碑として建てられたものなのです。さらに石碑の権威を高めるために、国家の英雄であった東郷平八郎に碑文の書を依頼したものと考えられます。

この碑は為朝がこの地に上陸したことを伝える大昔の遺跡ではなく、石碑そのものが近代という時代の残した歴史的な遺跡だといえます。

参考文献:『今帰仁村史』、高良倉吉「沖縄研究と天皇制イデオロギー」(『沖縄歴史論序説』)

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