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2006年1月30日 (月)

球人に網巾をきせる

琉球と交流のあった中国の福建には、当地の沖縄では知られていないコトワザや、交流をうかがわせる言葉などが残っています。そのいくつかを紹介しましょう。

琉球と福建の交流がさかんだったのは、琉球船が中国に入る玄関口だったからです。福建の泉州と福州の港は、琉球の進貢船の寄港地となっていました。この進貢船とは明朝から公認された琉球王府の直営船です。琉球と中国との貿易は基本的に国家間の公的な活動に限定されていました。しかし、その裏では密貿易が行われていました。明朝は民間人が勝手に海外へ出向いて貿易することを禁止したのですが、中国沿岸部は土地も少なく、農業をするより貿易活動で生計を立てている人々が多く住んでいました。貿易が禁止されると彼らは生活できません。そこで貿易商たちは現地の役人と結託して、なかば公然と密貿易活動を行ったのです(彼らはのちに「倭寇」とも呼ばれます)。

密貿易は非合法なので記録に残ることは少なく、実態もよくわからないのですが、今日の福建にはある言葉が伝えられているそうです。それが「做琉球(ツォ・リウチウ)」という言葉です。「琉球貿易に出かける」という意味です。福建では禁令をやぶって海外に貿易に行く商人が多かったようで、「做琉球」もその名残りではないかと言われています。

また清代の中国には琉球に関する面白いコトワザがありました。16世紀、琉球国王を任命する中国の使者(冊封使)の副使に謝杰(しゃけつ)という人物がいたのですが、謝杰の親戚が使節に同行して琉球へ行ったそうです。彼は中国で網巾(中国人がつけるヘアーネット)を大量に買い込んで琉球で売りさばこうと試みます。しかし、琉球人の髪型はカタカシラという琉球独特の髪型で、中国人のように網巾をつける習慣はありません。当然、網巾は琉球で全く売れませんでした。このままでは大損です。そこで彼は謝杰に頼みこんだのでしょうか、謝杰は琉球に対してこう言います。「明の礼にならってお前たちが網巾を着けなければ、琉球国王を任命する儀式は行わない」と。驚いた琉球人たちは、われ先にと謝杰の親戚が持ってきた網巾を買い、網巾は完売してしまいました。職権乱用もいいとこですが…それ以来、福建では押し売りをすることや、無理やり人に何かをさせることを「球(琉球)人に網巾をきせる」というようになったそうです。

残された言葉から交流の歴史をさぐるのも、けっこう面白いかもしれませんね。

参考文献:高良倉吉『琉球王国史の課題』、原田禹雄『琉球と中国』

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2006年1月23日 (月)

東郷平八郎と為朝伝説(3)

近代以前には存在していなかった「日琉同祖論」は、どのように生まれてきたのでしょうか。羽地朝秀の「日琉同祖論」とその根拠としての為朝伝説を「発見」して主張したのは、実は戦前の沖縄側の研究者でした。

沖縄の歴史を研究する東恩納寛惇は、日本本土の研究者と為朝伝説の信憑性を論争するなかで、“王族の起源神話”としての為朝伝説を“沖縄人全体”の問題として読みかえてしまいます。さらに羽地が久高島参詣を批判する根拠とした「日琉同祖論」も、琉球人が日本民族と同じであることを主張したものと解釈してしまいます。「沖縄学の父」と呼ばれる伊波普猷も羽地の同祖論を取り上げ、彼が述べた前後の文脈を無視して「日琉同祖論」を唱え、琉球人には日本人の資格がある証明としたのです。

東恩納や伊波ら沖縄地元の研究者が唱えた「日琉同祖論」は、やがて本土でも一般に流布していきました。琉球の日本帝国への編入は、かつて別れた同胞が一つとなった「民族統一」として、評価されていきます。そして大正天皇の即位の際、その“功績”を認められた羽地朝秀は天皇から正五位を贈られました。さらに戦後、沖縄の日本復帰に際して、羽地朝秀は「本土の源流に復帰する」ことを目指した人物として位置づけられます。現在わたしたちが認識する「日琉同祖論」は、このように形成されたのです。

なぜ支配された側である沖縄から、支配を正当化するような主張が生まれてきたのでしょうか。琉球処分後、沖縄では王国の復活をめざす動きはありましたが、日清戦争で日本が勝利した状況では、日本のなかで生きていく以外の選択肢は沖縄の人々には残されていませんでした。沖縄側の研究者は琉球と日本との共通点を見出して「日本のなかの沖縄」の現実を生きていく歴史論を主張したといえるのではないでしょうか。(ただし伊波普猷は沖縄が日本帝国の一部であることを容認しながらも、沖縄の独自性も重要視しています)

野蛮で遅れた地域とされた沖縄は、戦前、様々な差別的待遇を受けました。沖縄にとっての近代化とは、=日本化でもありました。沖縄の人々は旧来の価値を否定し「日本人」となることで、差別的な待遇を解消しようとしたのです。例えば経済学者で後に日本共産党にも入党した河上肇が講演で、「沖縄には独自性があり、本土と違って忠君愛国の思想が薄い。歴史を見るとこのような場所から偉人が誕生する」と指摘したのに対し、県内マスコミは河上に非難の集中砲火を浴びせます。いわゆる“河上肇舌禍事件”です。河上肇は沖縄の持つ可能性を評価したつもりだったのですが、皇国日本への同化に力をそそいでいた沖縄社会のリーダーたちにとっては、県民の「忠君愛国」思想を否定する彼の発言は許しがたいものだったのです。

戦前の沖縄の人々は立派な「日本人」となることをめざして努力していました。先に見た運天港の「為朝上陸の碑」も、そのような状況で沖縄の側から積極的に作られたのものでした。このような沖縄の人々が行ってきた努力は、「沖縄戦」というかたちで帰結することになります。

参考文献:與那覇潤「「日琉同祖論」と「民族統一論」」、高良倉吉『琉球王国』

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2006年1月16日 (月)

東郷平八郎と為朝伝説(2)

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前回紹介した「日琉同祖論」の根拠とされる源為朝の琉球渡来伝説について詳しく述べていきましょう。この為朝伝説は琉球が日本のものであることを示すために主張されたものと一般的に考えられています。これに関連して、近世琉球の政治家である羽地朝秀(向象賢)も薩摩の支配を肯定するために「日琉同祖論」を唱えたとされます。しかし一般に広まっているこれらの説は誤解であることが最近の研究で明らかになっています。

まず、羽地朝秀は「日琉同祖論」を薩摩の支配を肯定するためには主張していません。羽地は数々の琉球の旧制度を改革していましたが、この一環で国王の久高島参詣を廃止する根拠として、この「日琉同祖論」を主張しているのです。久高島は琉球の神々が農耕をもたらした「神の島」とされていました。この「琉球独自」の神を拝むための参詣を批判するために、「琉球の五穀も人も日本より渡ってきたものだから独自性などない。だから久高島を参詣する意味もない」と主張したわけです。羽地はむしろ「五穀」を主眼としていて、そこには薩摩支配の肯定も、日琉民族が同じだという意味も込められていません。だから羽地が薩摩支配を支持するために「日琉同祖論」を唱えたとするのは間違いです。

当時、島津氏の琉球支配の根拠となっていたのは、室町幕府から琉球を賜わったとする「嘉吉附庸説」です。羽地も「琉球が日本に“朝貢”を開始したのは永享年中(室町時代)である」と述べています。

為朝の琉球渡来伝説はどうでしょうか。この伝説は薩摩の征服以前に、渡来したヤマト僧など一部ですでに唱えられたようですが、当時の日本や琉球では一般には受け入れられませんでした。この伝説は『保元物語』にある「為朝の鬼が島渡り説話」などがもとになったと考えられています。そもそも、この伝説はあくまでも「王室」の起源神話であって、琉球の住民全体を「日本民族」とする話とは全く関係ありません。

では為朝伝説や「日琉同祖論」は、琉球を併合するために明治政府が出してきた主張だったのでしょうか。実はそれも違います。明治政府は琉球領有の根拠にこれらの説を全く主張していないのです。根拠としたのは江戸時代に薩摩が琉球から税を徴収した事実でした。「日琉同祖論」は全く問題にされていないのです。この頃の日本側の学者は同祖論を否定すらしています。

このように「日琉同祖論」や同祖論の根拠としての為朝伝説は、薩摩支配下の琉球王国に起源があるわけでもなく、明治政府が琉球領有を正当化するための根拠でもありませんでした。つまり近代まで「日琉同祖論」は事実上、存在しなかったといってもいいでしょう。

【写真】は為朝上陸の碑の立つ丘から眺めた運天港

参考文献:與那覇潤「「日琉同祖論」と「民族統一論」」(『日本思想史学』36)、村井章介『東アジア往還』(朝日新聞社)

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2006年1月 9日 (月)

東郷平八郎と為朝伝説(1)

東郷平八郎というと日露戦争の際の連合艦隊司令長官で、ロシアのバルチック艦隊を破った人物として知られています。今回はこの東郷平八郎と沖縄、源為朝の渡来伝説の意外な関係を紹介します。

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沖縄本島北部の運天港を見下ろす丘には「源為朝公上陸之趾」と書かれた石碑があります【写真・上。クリックで拡大】。この石碑に書かれた文字、実は東郷平八郎によって書かれたものです。石碑の背面を見ると、大正11年(1922年)に建立されたことがわかります。石碑の材料には1874年に国頭の宜名真村沖で座礁したイギリス船のバラスト(船のバランスを取るため船底に置かれた石)が使われたそうです。

この石碑は、運天港に源為朝が上陸して、その子孫が琉球の王になったという伝承をもとにして作られたものです。源為朝の琉球渡来伝説は、日本人と琉球人は同じであるという「日琉同祖論」の根拠の一つとされています。

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石碑の台座部分には「国頭郡教育部会発起」とあります【写真・上。クリックで拡大】。この国頭郡教育部会は沖縄県教育会という教育団体の支部会で、明治天皇の講話資料(1913年)や『国頭郡志』(1919年)と呼ばれる郷土史を編集しています。編集の中心的人物には島袋源一郎という人物がいました。彼は国頭郡教育部会幹事・同郡青年会幹事として社会教育活動を行っていました。この時期の社会教育活動というのは、沖縄の人々に「日本国民」として忠君愛国の精神を叩き込むことです。『国頭郡志』も学術的な目的で書かれたものではなく、忠良なる“皇民”をつくるため愛郷心の育成を目的とした「郷土教育」の産物でした。島袋自身も郷土教育の目的を「愛郷心を拡充して愛国心に到達せしむ」と述べています。

大正期に入るとこのような郷土史編集が各地で活発となりましたが、これと同時期に国頭郡における「郷土教育」を主導した団体によって為朝上陸の碑が作られた事実は注目されます。運天にある為朝上陸の碑は、大正期に活発となった愛国心を育てるための「郷土教育」と関連して国頭郡教育部会によって企画され、沖縄県民が皇国の臣民であることを示す「日琉同祖論」の記念碑として建てられたものなのです。さらに石碑の権威を高めるために、国家の英雄であった東郷平八郎に碑文の書を依頼したものと考えられます。

この碑は為朝がこの地に上陸したことを伝える大昔の遺跡ではなく、石碑そのものが近代という時代の残した歴史的な遺跡だといえます。

参考文献:『今帰仁村史』、高良倉吉「沖縄研究と天皇制イデオロギー」(『沖縄歴史論序説』)

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