豊臣秀頼、琉球潜伏説
前回は秀吉ネタということだったので、続けて豊臣氏と琉球の関わりについて紹介したいと思います。天下に権力を振るった豊臣秀吉の死後、跡を継いだ子の秀頼は1615年(元和元年)、徳川家康の大軍によって攻められ、大坂城で自ら命を絶ちます。いわゆる大坂夏の陣です。大坂城が落城してまもなく、あるウワサが日本各地でささやかれ始めます。大坂城で死んだはずの秀頼が実は落ちのびて生きているというウワサです。
平戸のイギリス商館長だったリチャード・コックスは、当時の人々の間でさかんに流れていたこのウワサを日記に書きとめています。ウワサは庶民だけでなく、平戸の大名松浦氏からも届きます。コックスはこれを作り話にすぎないと否定しますが、その疑いを完全に消すことはできなかったようです。その後もしばしばこのウワサについて書き記しています。そのなかで秀頼は薩摩か琉球諸島に逃れたのではないかという、ある情報が入ってきます。
秀頼が琉球で生きているのではないか。この「有力」な情報は家康の耳にも届いたようです。ウィリアム・アダムス(三浦按針)は家康から駿府へ呼ばれますが、その理由を「大坂を落ちのびた秀頼が隠棲場所として琉球で新たな城を建造中である」との情報を彼にたずねるためであったといいます。家康は秀頼が琉球に潜伏しているのではないかと考えていたようです。
大坂夏の陣の翌年、長崎から村山等安の軍船が台湾攻撃のために出港しますが、ちまたではこの攻略部隊が秀頼を捜索するために琉球へ向かう予定であるとウワサされていたといいます。このように秀頼生存説は無視できない深刻な問題として、当時の人々の間でまことしやかに語られていたのです。
なぜ秀頼が薩摩・琉球方面に潜伏していたとウワサされたのでしょうか。このウワサには当時の人々に確かな情報ではないかと信じさせる、ある「根拠」がありました。まず西国が徳川政権の影響力から最も遠い場所であり、とくに薩摩藩が徳川の力が及びにくいところという認識があったこと。さらに大坂から薩摩を通って琉球へ到るルートが現実に存在したことです。
ウィリアム・アダムスは1614年冬、貿易のためジャンク船でシャムへ向かいますが途中嵐に遭って、島津氏に征服されて間もない琉球に寄港しています。彼はその時、大坂から落ちのびてきた「位の高い人物」が首里に来たことを聞いています(残念ながら名前は記されていません)。実際に大坂から琉球へ潜伏することは可能であったのです。幕府は薩摩藩を通じて琉球に大坂の落人を捜索し、発見次第ただちに日本へ引き渡せという命令を実際に出しています。おそらく多数の大坂方の落人が琉球にいたのではないでしょうか。
実はこの当時、10万人以上の日本人が東南アジア方面へ渡航・移住するという日本の「大航海時代」とも呼べる社会現象が起こっていました。大坂の陣で敗れた雑兵たちも新たな新天地を求めてひそかに東南アジアへ向かい、傭兵などとして活躍したとみられます。琉球は日本人が東南アジアへ向かう際の中継地として使われたようです。このように秀頼の琉球潜伏は当時の人にとっては「ありえる」話だったのです。
さて、琉球に潜伏していた大坂方の「位の高い人物」とはいったい誰なのでしょうか。まさか秀頼本人なんてことは…
参考文献:田中健夫「豊臣秀頼琉球潜入説」(田中健夫『東アジア通交圏と国際認識』)、山下重一「三浦按針(ウィリアム・アダムス)の琉球航海記」(『南島史学』47号)
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