秀吉もびっくり、ウフチブル我那覇
豊臣秀吉といえば、言わずとしれた戦国時代を勝ち残って天下人となった人物です。大河ドラマでも秀吉を取り上げた年には高視聴率をマークし(最近では竹中直人主演で放送されていましたね)、彼が今なお多くの人々に愛されていることがわかります。ドラマでは天下を取ったところでだいたい終わりますが、実はその物語には続きがあります。日本全国を支配下においた秀吉は、さらにアジア世界の征服をもくろみます。秀吉が朝鮮に攻め入ったのはご存じの方もいると思いますが、彼は朝鮮の征服自体が目的だったのではなく、その先の明をめざしていました。当時の記録には朝鮮侵攻のことを「唐入り」と表現しています。朝鮮はあくまでも通り道にすぎなかったわけです。
1592年、16万の日本軍が朝鮮の釜山に上陸、破竹の勢いで進撃してわずか1ヶ月で首都の漢城(ソウル)を陥落させます。国王は逃亡し、朝鮮王朝はもはや風前の灯でした。さらに秀吉はルソン(フィリピン)や台湾、そして琉球にも支配の手をのばしていました。秀吉はかつて亀井茲矩という武将(彼の兄の子孫は国民新党の亀井静香センセイ)に琉球を与えることを約束して「琉球守(りゅうきゅうのかみ)」と名乗らせたように、琉球王国を自らのものと考えていました。
琉球に対しては薩摩の島津氏を介して使節の派遣を命じ、1589年、琉球の使者は京都の聚楽第で秀吉と対面します。この時の使者は天龍寺桃庵というお坊さんでしたが、その補佐役として我那覇親雲上(がなは・ぺーちん)秀昌がいました。対面した秀吉は正使の天龍寺そっちのけで我那覇に興味を示します。我那覇は頭が大きい人物だったようで、秀吉は彼の冠(ハチマキ)を取って自分がかぶります。すると我那覇の冠は秀吉の頭にスッポリとはまってしまったのです。秀吉は「大なるかな、秀昌の頭や」と叫んだといいます。嬉々として我那覇の冠をかぶる秀吉が想像できますね。それ以来、彼は「大頭(ウフチブル)我那覇」というニックネームがついてしまいます。我那覇にしてみればいい迷惑で「秀吉の野郎め…(怒)」と怒ったかもしれません。
秀吉はこの時の琉球の使者を一方的に服属するために来たと解釈して朝鮮出兵の食料支援を要求してきます。明を宗主国にいただく琉球は当然、明征服のための戦争に協力できるはずはありませんが、従わなければ朝鮮のように攻め込まれる恐れもあり、結局半分だけ出すということで妥協します。しかし一方ではひそかに明に秀吉のたくらみを通報したりと、日明のはざまで難しい外交のかじ取りを迫られるのです。
ご存じのように朝鮮出兵は失敗し、秀吉の野望ははかなくもついえました。琉球は秀吉に攻められることはなかったわけですが、今度は秀吉の出兵で断絶した日明の国交回復をめぐって徳川家康が琉球を利用しようと考え、島津氏がそれに乗じて支配をねらいます。琉球は再び時代の荒波にまきこまれていくのです。
参考文献:紙屋敦之『幕藩制国家の琉球支配』、『球陽』附巻一
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コメント
お久しぶりです。相変わらず楽しく読ませて頂いています。今回のお話も興味深く其の場面が目に浮かぶようで楽しかったです。次回も期待しております。
投稿: 嵐の中の進貢船乗船中 | 2005年12月 8日 (木) 21:47
こんばんは。
僕のイナカは宮崎県の高千穂ですが、ウチも秀吉の侵略で叩き潰された地方なので、はっきり言って「秀吉人気」はムカつきます。
ところで、沖縄の人が島津を嫌いなのは当然だと思うけれど、じつは島津義久は琉球侵略に大反対だった-ということはご存知ですか?
あの当時の島津は「義久/義弘」の兄弟権力が並立していた。で、「徳川には逆らえない」として侵略を主導したのは、義弘とその子の忠恒(=家久)です。
対して義久は「薩摩と琉球は昔から盟友」との持論を譲らず、ついには義弘らと内戦寸前というところまで対立しました。
このことは山本博文『島津義弘の賭け』が詳説しています。もっとも同書は侵略肯定の立場なので、「さすが義弘は賢い。義久はバカな田舎者だ」なんて言ってますが。
投稿: 弓木 | 2005年12月 9日 (金) 02:27
>参考文献:紙屋敦之『幕藩制国家の琉球支配』
を読まれたのですか?
いいなあ。
絶版のため、今は入手困難の稀覯本じゃないですか!
投稿: 笛木のり | 2005年12月 9日 (金) 23:28
最初の頃に書かれた記事を読むと、これってちょうど琉球人の冠がターバンから帽子型になった頃のことですよね?
新品のハチマキのサイズが合わなくてやたら目立ったというのが真相だったりして(笑)
投稿: 茶太郎 | 2005年12月10日 (土) 18:19
ごめんなさい。
当方ブログの「お気に入り」を見て、勝手に自分のブログにリンクしちゃった“困ったさん”がいます。
今後、自分の専門分野にこだわり過ぎた、訳の分からないコメントが入る可能性もあります。
本当に申し訳ございません。<(_ _)>
投稿: 笛木のり | 2005年12月17日 (土) 11:53
返事が遅くなってすみません。
>嵐の中の進貢船乗船中さん
ありがとうございます。そういえば古琉球の民衆像についての話はまだでした…近いうちに掲載したいと思います。お待たせしてすみません。
>弓木さん
『島津義弘の賭け』は僕も読んだことがあります。山本さんは確かな史料をもとにしながら堅苦しい研究書のようにならず、あれだけ面白い本が書けるというのはすごいと思います。
琉球侵攻の理由は紙屋氏も明らかにしてますが、分裂した家臣団の再編問題や幕府の日明講和交渉などが複雑にからみあって行われたようですね。
義久は出兵に反対の立場だったようですが、琉球のためを思っていたというより島津家の維持が第一にあったような気がします。義久は琉球に向けて「早く我々に服属しなさい。うちのもんの忠恒は短気でな、あなた方との友好を大事にする私が何とか止めてるのだよ。」などと書状を送って、ヤクザ顔負けの恫喝を行ってます。
まあ僕はとくに島津がキライというわけではないですけどね。弱肉強食のキビシイ時代のなかで起こった出来事だったと思ってます。
>笛木のりさん
絶版になっていたのですか?知りませんでした。僕は古本屋で買えましたよ。ここのブログはリンクフリーです。あやまらなくてもいいですよ(^_^;
>茶太郎さん
いわれてみるとそうですね、ハチマキが変化したのはこの頃ですね。茶太郎さんの新説が意外と真相なのかもしれません。
投稿: とらひこ | 2005年12月17日 (土) 21:28
薩摩の田舎侍共による琉球征服は琉球王国の自滅した点
もあると思う。
政治を保ちたいからといって王族豚貴族琉球豚共の
保守精神の産物である「武器禁止令」が、
琉球王国を滅亡させたとしか考えられない。
投稿: hfgk | 2006年1月 3日 (火) 16:44
>hfgkさん
琉球王国は「武器禁止令」など出したことはただの一度もありません。島津軍の侵攻に対しては最新兵器の大砲で応戦しています。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2005/05/post_043b.html
を参照のこと。
投稿: とらひこ | 2006年1月 3日 (火) 17:33
その我那覇親雲上秀昌は私の先祖3代目だと聞いています。秀吉に頭でっかちとからかわれた話は親戚との集まりで何かと話題になります。私も小さいころ、頭のサイズが少し大きかったので遺伝かと思っていました。(大人になると普通サイズになっています。笑)
初代は起龍沢岻掟親雲上秀実。元は僧で、京都(鹿児島からという説もあります)から沖縄の島経由で明国へ赴き帰る途中に琉球国(尚真王)からの依頼でとどまることになったそうです。
投稿: 崎浜秀磨 | 2024年11月23日 (土) 13:46