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2005年12月18日 (日)

豊臣秀頼、琉球潜伏説

前回は秀吉ネタということだったので、続けて豊臣氏と琉球の関わりについて紹介したいと思います。天下に権力を振るった豊臣秀吉の死後、跡を継いだ子の秀頼は1615年(元和元年)、徳川家康の大軍によって攻められ、大坂城で自ら命を絶ちます。いわゆる大坂夏の陣です。大坂城が落城してまもなく、あるウワサが日本各地でささやかれ始めます。大坂城で死んだはずの秀頼が実は落ちのびて生きているというウワサです。

平戸のイギリス商館長だったリチャード・コックスは、当時の人々の間でさかんに流れていたこのウワサを日記に書きとめています。ウワサは庶民だけでなく、平戸の大名松浦氏からも届きます。コックスはこれを作り話にすぎないと否定しますが、その疑いを完全に消すことはできなかったようです。その後もしばしばこのウワサについて書き記しています。そのなかで秀頼は薩摩か琉球諸島に逃れたのではないかという、ある情報が入ってきます。

秀頼が琉球で生きているのではないか。この「有力」な情報は家康の耳にも届いたようです。ウィリアム・アダムス(三浦按針)は家康から駿府へ呼ばれますが、その理由を「大坂を落ちのびた秀頼が隠棲場所として琉球で新たな城を建造中である」との情報を彼にたずねるためであったといいます。家康は秀頼が琉球に潜伏しているのではないかと考えていたようです。

大坂夏の陣の翌年、長崎から村山等安の軍船が台湾攻撃のために出港しますが、ちまたではこの攻略部隊が秀頼を捜索するために琉球へ向かう予定であるとウワサされていたといいます。このように秀頼生存説は無視できない深刻な問題として、当時の人々の間でまことしやかに語られていたのです。

なぜ秀頼が薩摩・琉球方面に潜伏していたとウワサされたのでしょうか。このウワサには当時の人々に確かな情報ではないかと信じさせる、ある「根拠」がありました。まず西国が徳川政権の影響力から最も遠い場所であり、とくに薩摩藩が徳川の力が及びにくいところという認識があったこと。さらに大坂から薩摩を通って琉球へ到るルートが現実に存在したことです。

ウィリアム・アダムスは1614年冬、貿易のためジャンク船でシャムへ向かいますが途中嵐に遭って、島津氏に征服されて間もない琉球に寄港しています。彼はその時、大坂から落ちのびてきた「位の高い人物」が首里に来たことを聞いています(残念ながら名前は記されていません)。実際に大坂から琉球へ潜伏することは可能であったのです。幕府は薩摩藩を通じて琉球に大坂の落人を捜索し、発見次第ただちに日本へ引き渡せという命令を実際に出しています。おそらく多数の大坂方の落人が琉球にいたのではないでしょうか。

実はこの当時、10万人以上の日本人が東南アジア方面へ渡航・移住するという日本の「大航海時代」とも呼べる社会現象が起こっていました。大坂の陣で敗れた雑兵たちも新たな新天地を求めてひそかに東南アジアへ向かい、傭兵などとして活躍したとみられます。琉球は日本人が東南アジアへ向かう際の中継地として使われたようです。このように秀頼の琉球潜伏は当時の人にとっては「ありえる」話だったのです。

さて、琉球に潜伏していた大坂方の「位の高い人物」とはいったい誰なのでしょうか。まさか秀頼本人なんてことは…

参考文献:田中健夫「豊臣秀頼琉球潜入説」(田中健夫『東アジア通交圏と国際認識』)、山下重一「三浦按針(ウィリアム・アダムス)の琉球航海記」(『南島史学』47号)

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2005年12月 8日 (木)

秀吉もびっくり、ウフチブル我那覇

豊臣秀吉といえば、言わずとしれた戦国時代を勝ち残って天下人となった人物です。大河ドラマでも秀吉を取り上げた年には高視聴率をマークし(最近では竹中直人主演で放送されていましたね)、彼が今なお多くの人々に愛されていることがわかります。ドラマでは天下を取ったところでだいたい終わりますが、実はその物語には続きがあります。日本全国を支配下においた秀吉は、さらにアジア世界の征服をもくろみます。秀吉が朝鮮に攻め入ったのはご存じの方もいると思いますが、彼は朝鮮の征服自体が目的だったのではなく、その先の明をめざしていました。当時の記録には朝鮮侵攻のことを「唐入り」と表現しています。朝鮮はあくまでも通り道にすぎなかったわけです。

1592年、16万の日本軍が朝鮮の釜山に上陸、破竹の勢いで進撃してわずか1ヶ月で首都の漢城(ソウル)を陥落させます。国王は逃亡し、朝鮮王朝はもはや風前の灯でした。さらに秀吉はルソン(フィリピン)や台湾、そして琉球にも支配の手をのばしていました。秀吉はかつて亀井茲矩という武将(彼の兄の子孫は国民新党の亀井静香センセイ)に琉球を与えることを約束して「琉球守(りゅうきゅうのかみ)」と名乗らせたように、琉球王国を自らのものと考えていました。

琉球に対しては薩摩の島津氏を介して使節の派遣を命じ、1589年、琉球の使者は京都の聚楽第で秀吉と対面します。この時の使者は天龍寺桃庵というお坊さんでしたが、その補佐役として我那覇親雲上(がなは・ぺーちん)秀昌がいました。対面した秀吉は正使の天龍寺そっちのけで我那覇に興味を示します。我那覇は頭が大きい人物だったようで、秀吉は彼の冠(ハチマキ)を取って自分がかぶります。すると我那覇の冠は秀吉の頭にスッポリとはまってしまったのです。秀吉は「大なるかな、秀昌の頭や」と叫んだといいます。嬉々として我那覇の冠をかぶる秀吉が想像できますね。それ以来、彼は「大頭(ウフチブル)我那覇」というニックネームがついてしまいます。我那覇にしてみればいい迷惑で「秀吉の野郎め…(怒)」と怒ったかもしれません。

秀吉はこの時の琉球の使者を一方的に服属するために来たと解釈して朝鮮出兵の食料支援を要求してきます。明を宗主国にいただく琉球は当然、明征服のための戦争に協力できるはずはありませんが、従わなければ朝鮮のように攻め込まれる恐れもあり、結局半分だけ出すということで妥協します。しかし一方ではひそかに明に秀吉のたくらみを通報したりと、日明のはざまで難しい外交のかじ取りを迫られるのです。

ご存じのように朝鮮出兵は失敗し、秀吉の野望ははかなくもついえました。琉球は秀吉に攻められることはなかったわけですが、今度は秀吉の出兵で断絶した日明の国交回復をめぐって徳川家康が琉球を利用しようと考え、島津氏がそれに乗じて支配をねらいます。琉球は再び時代の荒波にまきこまれていくのです。

参考文献:紙屋敦之『幕藩制国家の琉球支配』、『球陽』附巻一

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