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2005年10月29日 (土)

卵で洗髪!王様シャンプー

お妃さまの選び方で、かつて首里城内で行われていた儀礼・風習についてお話しましたが、ほかにも面白い王様のプライベートを紹介しましょう。

首里城の王様はどのようにお風呂に入っていたのでしょうか。伝承によれば、場所は不明ながら首里城にもちゃんとお風呂があったそうです。風呂場は6畳ほどの広さで、内部には厚さ1寸5分(5センチほど)の板張りの浴槽がありました。お湯は別の場所で沸かされ、わざわざ浴室まで運ばれてきたそうです。

王様の入浴は夕方で、白木綿の浴衣を着たまま入りました。2人の近習たちが浴衣のそでやえり口から手を入れてゴシゴシ洗ったそうです。王様ともなると自分の体も臣下に洗わせていたんですね。入浴を終えると、濡れた浴衣姿のままで居室のある二階殿に戻り着替えて、その後夕食をとったということです。濡れたままで風呂から移動するなんて、冬は寒そうです。風邪をひかなかったのでしょうか。

洗髪は入浴とは別に行われました。シャンプーは何と卵の白身。王様の髪に卵の白身をたっぷりと塗りたくり、その後濡れた手ぬぐいで何回も卵白のヌメリをふきます。そして乾いた手ぬぐいでふいた後、髪を結いなおしたといいます。手ぬぐいでふいても卵のヌメリはとれず、髪を整える髪油は必要なかったといいますが、王様の髪はいつもベタベタで生臭かったわけですね。この卵洗髪、特別に珍しいわけではなく、今でも卵の白身でヘアパックをすることがあるそうです。王様の洗髪も髪のケアにはいいかもしれませんが、そのまま洗い流さないというのはちょっと…

ちなみに卵の黄身の部分は捨てることはなく近習が食べていたそうです。役得かもしれませんが、洗髪のたびに卵の黄身を何個も食わされていてはさすがに飽きたかもしれません。

参考文献:真栄平房敬『首里城物語』

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2005年10月22日 (土)

“世界遺産”中城に嘆く

先日、久しぶりに中城(なかぐすく)城跡を訪れました。中城は15世紀の護佐丸(ごさまる)の居城で、当時の首里城にも匹敵する大型グスクです。沖縄県内でも数少ない保存状態の良好なグスクで、世界遺産にも登録されました。

CIMG06942 その中城を見て、がく然としました。現在整備が進められている中城ですが、南の郭の御嶽(ウタキ)内のイビ(聖石)に生えていた樹木がキレイに伐採されているのです【写真】。勝手に生えてきたジャマな雑木だから切ればいい、と思うかもしれません。たしかに自生したものもあるでしょう。しかし、ウタキのなかに生えた木々はそのような木ばかりではないのです。

ウタキの域内に生えた木はガジュマルやクバが多いのをお気付きでしょうか。実はこれらの木は“聖木”“神木”とされ、聖地であるウタキへ神が降りてくるための依代(よりしろ)とされていました。つまり、ウタキ内に生えているガジュマルやクバは意図的に植えられたものである可能性が高いのです。

例えば首里城内にある首里森御嶽は、聖地であるウタキを石垣で囲み、内部に樹木が植えられています(ここを参照)。これは聖木としての樹木も一緒に復元したものです。また糸数グスク内にあるウタキ(糸数城之御嶽)も、聖地の本体であるイビを石垣で囲っていますが、そのイビにガジュマルが根付いているのが確認でき、さらにはクバもあります【写真】。とくにクバはウタキの域内にしか生えておらず、意図的に植えられたものであることがわかります。おそらく王国時代に植えられた聖木のガジュマルやクバが、そのまま成長して残っているものと考えられます。

CIMG0657

つまり聖地の本体であるイビと石垣、そして聖木がセットになってはじめて“ウタキ”だといえるのではないでしょうか。ウタキ内の木も遺跡の一部なのです。中城の南の郭にあるウタキの聖木がいつ植えられたのかわかりませんし、もしかしたら偶然生えたものなのかもしれません。しかし沖縄の歴史について少しでも理解があれば、せめて現状を維持して後の調査を待つ、という選択もできたはずです。少なくとも今回の整備は、“世界遺産”の景観を美しく整備するという、行政的な論理のみで処理されたとしか考えられません。

これまでほとんど未整備であった中城は、石垣のすき間に樹木が生えて石垣が崩壊する危険がありました。当然、それらを切る必要はあると思いますが、ウタキのイビに生えたガジュマルは中城を破壊するような危険性はなかったと思います。今回の「整備」について僕は疑問です。

「世界遺産」とは何でしょうか。テーマパーク化して観光客を呼ぶためのブランドなのでしょうか。遺跡を開発や破壊から守り、本来の姿を維持するはずの目的が、世界遺産に認定されることによって、逆に本来の姿が失われてしまうという皮肉な結果を生み出すことになりかねません。

世界遺産を沖縄県の一行政村にすぎない中城村が整備するのは大変な困難をともなうことだと思います。しかし、もう少し沖縄の歴史・文化を考慮したうえでの整備を行ってほしい。たかが木じゃないか、と思うかもしれませんが、今回の問題は「世界遺産」と観光地化、沖縄の史跡整備という重要な問題を内包しているのです。

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2005年10月16日 (日)

雪舟が出会った古琉球人

雪舟といえば室町時代の水墨画家の大家です。彼が子供の頃、涙でネズミを書いてそのうまさに和尚さんが驚いたというエピソードを皆さんもご存じかと思います。雪舟は1468年、遣明船の使節として明(中国)に渡り、数年間水墨画の勉強にはげみました。実は中国滞在中、彼は琉球人に出会ったらしいのですが、その事実はそれほど知られていません。

雪舟は滞在中、中国で出会った様々な人たちをスケッチしています。それが「国々人物図巻」です。日本では見ることのできない異国人たちは雪舟にとって好奇心の対象だったにちがいありません。図巻には王や官人、女性、そして高麗人や女真国人、天竺人などと並び、琉球人も描かれています【画像】。

Photo_3 この琉球人、おそらく現存する唯一の古琉球人画像です。ゆったりとした服、ハダシ、頭の左側に結ったマゲが特徴です。前に琉球人のマゲとターバンの話でも書きましたが、琉球人の髪型として知られるカタカシラは、本来は頭のてっぺんではなく片側のモミアゲあたりに結っていました。【画像】の琉球人が頭の上に結髪してないのは明白です。つまりモデルチェンジする前の琉球人の髪型を描いたものだとわかります。

しかし「国々人物図巻」は雪舟の記名がありません。あくまでも「伝」雪舟画ということで琉球人画像が本物かどうか疑問視される方もいるかもしれません。

ではこの当時の琉球人はどういう姿をしていたのでしょうか。別の記録からみていくと、琉球人はそで口の広い服を着ていて、そで口には五色の糸を使った獣形の刺繍(ししゅう)があり、それを身分の目印にしていたそうです。足はハダシあるいはゾウリをはき、冠をかぶらず、頭の左側(右側という記録も)に髪を結っていたとあります。

これらを見ると、雪舟が描いたといわれる琉球人は単なるイメージで描かれたのではなく、実際の見聞をもとにして正確に描いたと考えたほうがよさそうです。雪舟は中国に滞在していたので、その時に中国に朝貢してきた琉球人と出会って、彼らの姿をスケッチしたのではないでしょうか。

大河ドラマ「琉球の風」に登場する琉球人は近世(江戸時代)に登場する姿をもとにつくられていますが、実際はそのような姿はしていなかったわけです。これは資料がないからという理由もあるでしょうが、今度琉球のドラマをつくる時には、雪舟が描いたといわれる琉球人を参考に制作されたらいいな、と思います。

※【画像】は「国々人物図巻」中の画をとらひこが筆写。着色は想定

参考文献:豊見山和行『琉球王国の外交と王権』

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2005年10月 9日 (日)

お妃さまの選び方

かつて沖縄に存在した琉球王国は、1879年(明治12)、明治政府によって日本に併合され消滅しました。首里城は政府によって接収され、城内にあった膨大な記録や宝物は四散して、王国時代を知るための手がかりはほとんど失われてしまいました。

ところが、戦前まで沖縄には首里城内に勤めていた女官や役人など「王国の記憶」を持つ人々が存命していました(彼らはほとんど沖縄戦で亡くなったようですが…)。考えてみると、現在から数えても琉球王国は滅亡してわずか120年ほどしか経っていません。琉球王国の時代は遠い過去の話ではないわけです。彼らは首里城内の儀礼や風習などを鮮明に記憶していて、戦前その話を真栄平房敬氏が聞き取っています。現在残されている記録からではわからない王国時代の貴重な証言の一端を紹介しましょう。

首里城の大奥(御内原)に勤めていた女官たちの証言によると、王のお妃は大変おもしろい方法で選ばれていました。

審査は王府の役人と女官たちによって行われ、まず、庭でまりつき、片足とび、2人が手をつないで引っ張り合いながらグルグルまわる遊びをさせて、他と比較しながら候補者をチェックします。役人や女官が、候補者たちの戯れる姿を真剣に見つめている光景は何だか滑稽ですね。そして室内に通して歩き方や足音を見てしつけができているか確認します。

次に個人面接。これは今の就職の面接とだいたい同じかもしれません。面接を通して教養や言葉遣い、性格などを見るそうです。さらに候補者たちに食事をとらせて食べ方をチェックします。そこでの重要なポイントは、ハシをなめた長さです。ハシをなめた部分が長いのは減点の対象となります。候補者たちはいかに口にハシが触れないでものを食べるか、親と「巨人の星」のように特訓したかもしれません。

このような審査の過程で、候補者は2~3名にしぼられてきます。最終審査は独特の内容になっています。黄金のハサミを畳の下のどこかに隠しておき、最終候補者たちをその部屋に入れて好きな場所に座らせます(場合によっては再度行う)。隠したハサミの上に座れば見事!当選です。王妃になるべき徳の高い人物は黄金のハサミの上に自然と座るものだと信じられていたようです。王妃となるために血のにじむような努力で礼儀作法や教養を身につけたとしても、最後は宝くじのような運だめしだったわけです。

琉球最後の王、尚泰王の時の王妃選びでは、最終候補者の佐久真殿内(どぅんち)と浦添殿内の娘が「ハサミくじ」を2度行って、1度目が佐久真、2度目が浦添で勝負は五分五分でした。ちなみに尚泰王は絶世の美人であった浦添の娘に心をよせていました。ハサミくじは対等であったために歴史記録を調べたところ、かつて佐久真家出身の王妃をめとった尚貞王は長生きして、浦添家出身の王妃をめとった尚温王は短命であったことが判明、先例を参考にして佐久真の娘に決定したということです。尚泰王はさぞかしガッカリしたことでしょうね。

参考文献:真栄平房敬『首里城物語』

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2005年10月 4日 (火)

ヤフーに掲載!

このブログが、ヤフーのオススメサイトに選ばれました!(10月3日)

ヤフー登録カテゴリは、地域情報>日本の地方、都道府県>沖縄県>芸術と人文>歴史です。

掲載されたとたんアクセス数が激増して、最初何かの嫌がらせかと思ってしまいました(笑)

たくさんの人にこのブログを訪れてもらえるのは嬉しいことです。これからも地道に「目からウロコの」琉球・沖縄の歴史を紹介していきたいと思います。

このブログは文章が中心ですが、写真で沖縄の歴史的風景を紹介する、おきなわ歴史散歩というブログもやってますので、あわせてそちらもご覧いただければ琉球・沖縄の歴史をより具体的にイメージできるのではないかと思います。

今後ともよろしくお願いします。

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2005年10月 1日 (土)

中国皇帝を超えた琉球王

琉球王国は中国(明・清)の冊封・朝貢体制下(つまり中国に臣下の礼をとり、皇帝から王として認めてもらうこと)にあったことはよく知られた事実です。

May22250_1 琉球国王が王として即位する際には中国から琉球へ冊封使(さくほうし)と呼ばれる使者が渡航し、首里城正殿前の御庭(うなー)において王に対し「なんじを琉球国王に任命する」と宣言する式典が行われました。その際に様々な贈り物とともに、国王には皮弁冠服(ひべんかんふく)が与えられます。これは国王が着用する中国風の王冠【画像・クリックで拡大】と衣裳です。

この中国の冠服は身分ごとに着用すべき服が厳格に定められていました。琉球国王は郡王ランクに位置付けられていて(日本や朝鮮はひとつ上の親王ランク)、それに応じた服が与えられたわけです。具体的には、郡王ランクは冠に並ぶ宝石や玉の飾りの列が7列に作られていました。 もちろん、この冠服制の頂点にあるのは中国皇帝です。

ところが江戸時代初め頃に当たる17世紀、漢民族の明王朝は北方の女真(満州)族の清に滅ぼされてしまいます。超大国の中華・明朝が辺境の蛮族にすぎないと考えられていた女真族に滅ぼされたことは、アジアの周辺地域に大きな衝撃を与えました(直接には李自成の反乱で滅ぼされるのですが)。当時の人がどれぐらいの衝撃を受けたかといえば、現代で例えれば超大国アメリカでクーデターが起こり、アルカイダなどのテロリスト集団に乗っ取られてしまったぐらいの衝撃をおそらく受けたはずです。

琉球でも宗主国の明が倒れてしまったことで大騒動になります。中国との貿易で成り立っていた琉球は明・清のどちらにつくかでもめますが、結局、優勢であった清朝に臣下の礼をとり、ひとまず一件落着します。しかしこれ以降、琉球国王の衣裳にある変化が起こります。国王の冠の玉列がそれまでの郡王ランクの7列から一気に12列へと増えるのです。この列の数は、実は皇帝ランクに相当します。琉球国王は自らを中国皇帝の地位に格上げしたのです。しかも玉の数は皇帝の冠のものを超えます。

こんなことをすれば中国皇帝が黙っているはずがありません。しかし、実際には何のおとがめもありませんでした。なぜかというと、明朝にとって替わった清朝は漢民族の冠服制を廃し、満州族独自の冠服制を採用したからです。琉球は明朝が滅びても、そのまま明の冠服制度を踏襲しました。それぞれ別の制度であったため、罪に問われなかったのです。清朝も琉球が朝貢国として忠実に従ってくれさえすれば良かったので、清の冠服制を無理強いすることはありませんでした。

琉球はそこに目を付け、明朝風の冠服を自分たちで制作し、中国風の儀礼をさかんに行うようになります。琉球国王は清の冊封体制に参加し、日本の徳川幕府の従属下にありながらも、琉球世界においては「中国皇帝を超えた存在」として君臨することになるのです。

ちゃっかりしてるというか、せこいというか…しかし、大国のはざ間におかれ、小国ながらもしたたかに生きる琉球の姿が見えるようで、何とも面白い話ですよね。

※【画像】は親王ランクの皮弁冠。『中東宮冠服』中の画をとらひこが筆写

参考文献:豊見山和行「御後絵からみた琉球王権」(高良倉吉ほか編『新しい琉球史像』)

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