がんばれ移住者山崎さん
こんにち、“沖縄移住ブーム”を知らない人は少ないでしょう。マスコミなどで盛んに「癒しの島沖縄」が宣伝され、かつてなかった数の人々が沖縄を訪れ、移り住んでいます。この現象は沖縄の歴史はじまって以来だと思われるかもしれません。しかし、400年前(日本では戦国時代)にもヤマトからの沖縄移住ブームがあり、数多くのヤマトの人々が沖縄へやってきていた事実はまったく知られていません。今回は400年前に生きていた一人の沖縄移住者のお話をしましょう。
その人物とは山崎二休守三(やまざき・にきゅう・しゅさん)。1554年生まれで彼はヤマトの越前(今の福井県)出身です。彼は医術をこころえた人間で、医術の腕をみがくうちに、ふとある噂を耳にします。
「南海の琉球というところは中国と交流があり、すぐれた医術の妙法がある」
これを聞いていても立ってもいられなくなった守三は故郷の越前を去り、はるばる琉球へ向かいます。彼は港町の那覇にしばらく居住していましたが、やがてその腕を買われて王府おかかえの医者として取り立てられます。よほど居心地が良かったのでしょうか、彼はマナベさんという女性と結婚し、そのまま琉球に居ついてしまいます。
1609年、琉球に激震が走ります。薩摩の島津軍が琉球を襲ってきたのです。この時、守三は首里城の西のアザナ(物見台)【写真】を守り、攻めてきた島津軍の武将・法元二右衛門の兵たちを撃退、法元も負傷させるという戦功をあげます(医者が人を傷つけるのもどうかと思いますが…国家存亡の緊急時にはそうも言ってられなかったのでしょう)。
しかし彼の奮戦もむなしく琉球は降伏、守三も捕らえられてしまいます。彼に傷を負わされた武将の法元は守三を問い詰めます。「お前は日本人なのになぜ敵対したのだ」と。守三は答えます。「たしかに私は日本の漢(おとこ)である。しかし琉球へ来て国王に仕え厚い恩恵を受けたのだ。たとえ処刑されても悔いはない」と。そして彼がまさに処刑されようという時、尚寧王は島津軍の兵に私財の宝物を与えて買収し、守三は命を助けられたのです。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には、「降倭」と呼ばれる日本人が朝鮮側に味方して日本軍と戦った例もあるように、当時の世界では民族や国家という壁があまり意識されていなかったことがわかります。現在の世界はボーダレス・グローバル化が進む社会とされていますが、実はそのような社会はかつて存在していました。400年前のボーダレス化された世界で、守三と同じような多くの“移住者”たちが琉球を訪れていたのです。
1631年、守三は琉球で77才の生涯を閉じます。彼は辞世の句を残していますが、最後にその句を紹介しましょう。
「しるべなき我をや君もたづぬらん しづ心なき秋のあらしに」
参考文献:『葉姓家譜』
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コメント
復活おめでとうございます。最近このブログを発見し、時間をかけて全部読ませてもらいました。
ナイチャーの移住は最近著しいですね。私の実家近くの土地も値上がりしています。開発に伴い自然も減り、これからの沖縄に不安を覚えます。
投稿: なおこ | 2005年9月13日 (火) 15:04
書き込みありがとうございます。
僕はいまの”沖縄移住ブーム”は一時のブームにすぎず、やがて落ち着いていくのではないかと思っています。
沖縄社会は日々変化していますが、どうせ変わるなら良い方向に変わっていってほしいですね。
これからもよろしくお願いします。
投稿: とらひこ | 2005年9月14日 (水) 12:10
今回も大変興味深く読ませていただきました。古琉球の時代はたしてどのように琉球人というアイデンティティが形成されてきたのか。自分達をどのように自分の知る世界観に位置づけていたのか。考えさせられました。どうもです
投稿: 嵐の中の進貢船乗船中 | 2005年9月16日 (金) 20:43
中世のアジア全体がそうだったといえるかもしれませんが、とくに交易国家であった古琉球は、様々な人々が移動し混ざりあった社会だったのではないかと思います。それこそ現代社会に通じるものですよね。意外と現代の感覚で見ていくと解明のヒントが見つかる問題なのかもしれません。
投稿: とらひこ | 2005年9月17日 (土) 00:50