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2005年9月21日 (水)

柳の御所とウタキ石門

【写真・下】は首里城歓会門前の園比屋武御嶽(そのひやんうたき)の石門。世界遺産にも登録されています。この門は聖地である御嶽の入口で、本体である園比屋御嶽は石門裏に広がる一帯の森をさします。 国王が外出する際に道中の安全を祈願した場所です。

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この門は1519年に八重山出身の西塘(にしとう)という人物の手によって建てられたといいます。門の上に掛けられている石のへん額【写真・下】には、ひらがなで「首里の王、おぎやかもいがなし(=尚真)の御代にたて申候、正徳十四年巳卯十月二十八」と書かれています。当時の琉球の公用文はひらがなだったんですね。一見、日本(ヤマト)のものと全く変わりませんが、使われている年号は日本のものではなく中国の年号です。この形式は日本とは似て非なる琉球独特のものといえるでしょう。

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前に述べた玉陵と同じく、この石門にも復元された首里城以前の、古琉球時代の情報が秘められています。石門をよく見てみると、石灰岩でできた石門とはちがう材質の砂岩で装飾がほどこされています【写真・下】。屋根の横についている逆三角状の装飾は懸魚(げぎょ)といわれるもので、建物を火災から守るためのまじないとして付けられました。屋根の棟(むね)に付けられている鯱(しゃちほこ)も同じく火よけのためのものです。この門は石で造られているため、火よけは本来必要ないはずです。つまりこの石門は当時存在していた木造建築をまねて造られたものであることがわかります。しかし、火よけをしているわりには中央に燃えさかる火炎宝珠(かえんほうじゅ)があったりして、よくわからないコンセプトですね。

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屋根のつくりは板ぶきの唐門(からもん)と呼ばれる形式で、屋根の先のほうには細い棒状の垂木(たるき)が並んでいます。唐門は室町幕府の将軍邸(柳原御所)の門にも使われていました。このような板ぶきの唐門は現在みることのできる琉球建築には存在しませんが、琉球伝統といわれる赤瓦の建物は、実は近世(江戸時代)に入ってからできた比較的新しいものなのです。この石門がつくられた16世紀尚真王の時代、もしかしたら首里城の門は室町将軍邸の門のようなかたちをしていたかもしれません。少なくとも室町将軍の御所と同じ門が琉球に確実に存在していたといえます。

私たちが尚真王の時代にタイプスリップしたとしたら、きっと“沖縄の歴史”のイメージとは全くちがう姿に驚き、こう言うはずです。「ここはいったいどこだ。琉球なのか」と。 今ではほとんど失われてしまった古琉球の風景ですが、御嶽の石門のような残された数少ない情報から、当時の姿をおぼろげながら想像することができます。

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2005年9月13日 (火)

がんばれ移住者山崎さん

こんにち、“沖縄移住ブーム”を知らない人は少ないでしょう。マスコミなどで盛んに「癒しの島沖縄」が宣伝され、かつてなかった数の人々が沖縄を訪れ、移り住んでいます。この現象は沖縄の歴史はじまって以来だと思われるかもしれません。しかし、400年前(日本では戦国時代)にもヤマトからの沖縄移住ブームがあり、数多くのヤマトの人々が沖縄へやってきていた事実はまったく知られていません。今回は400年前に生きていた一人の沖縄移住者のお話をしましょう。

その人物とは山崎二休守三(やまざき・にきゅう・しゅさん)。1554年生まれで彼はヤマトの越前(今の福井県)出身です。彼は医術をこころえた人間で、医術の腕をみがくうちに、ふとある噂を耳にします。

「南海の琉球というところは中国と交流があり、すぐれた医術の妙法がある」

これを聞いていても立ってもいられなくなった守三は故郷の越前を去り、はるばる琉球へ向かいます。彼は港町の那覇にしばらく居住していましたが、やがてその腕を買われて王府おかかえの医者として取り立てられます。よほど居心地が良かったのでしょうか、彼はマナベさんという女性と結婚し、そのまま琉球に居ついてしまいます。

1609年、琉球に激震が走ります。薩摩の島津軍が琉球を襲ってきたのです。この時、守三は首里城の西のアザナ(物見台)【写真】を守り、攻めてきた島津軍の武将・法元二右衛門の兵たちを撃退、法元も負傷させるという戦功をあげます(医者が人を傷つけるのもどうかと思いますが…国家存亡の緊急時にはそうも言ってられなかったのでしょう)。

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しかし彼の奮戦もむなしく琉球は降伏、守三も捕らえられてしまいます。彼に傷を負わされた武将の法元は守三を問い詰めます。「お前は日本人なのになぜ敵対したのだ」と。守三は答えます。「たしかに私は日本の漢(おとこ)である。しかし琉球へ来て国王に仕え厚い恩恵を受けたのだ。たとえ処刑されても悔いはない」と。そして彼がまさに処刑されようという時、尚寧王は島津軍の兵に私財の宝物を与えて買収し、守三は命を助けられたのです。

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には、「降倭」と呼ばれる日本人が朝鮮側に味方して日本軍と戦った例もあるように、当時の世界では民族や国家という壁があまり意識されていなかったことがわかります。現在の世界はボーダレス・グローバル化が進む社会とされていますが、実はそのような社会はかつて存在していました。400年前のボーダレス化された世界で、守三と同じような多くの“移住者”たちが琉球を訪れていたのです。

1631年、守三は琉球で77才の生涯を閉じます。彼は辞世の句を残していますが、最後にその句を紹介しましょう。

「しるべなき我をや君もたづぬらん しづ心なき秋のあらしに」

参考文献:『葉姓家譜』

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