首里城の謎(5)続・死者の王宮
玉陵の欄干には龍や鳳凰など中国の想像上の動物が彫刻されています【写真】。龍は王権のシンボルとされ、首里城の装飾などに多く見られますが、実は琉球が薩摩の島津氏に征服される以前は、鳳凰が王のシンボルとして日輪とともに使われていたようです。古琉球の歌謡集『おもろさうし』には「べにのとり(紅の鳥)」という呼び名で登場します。
古琉球時代のものとみられる、神女(ノロ)が儀式で使う扇、漆器にも鳳凰と日輪が描かれています。古琉球時代に造られた石碑には、日輪を中心に鳳凰が2匹と瑞雲(めでたい雲)が描かれています。
この形式は琉球独特の文様で、尚真王の時代からさかんに使われるようになりますが、島津氏によって琉球が征服された後には、石碑中に鳳凰は全く描かれなくなってしまいます。この変化は島津氏の征服によって王権が失墜してしまったことを示しているのでしょうか。
鳳凰の描かれている玉陵は、近世以前の琉球の古い形式を残すものであると考えられます。玉陵のモデルとなったとみられる尚真王時代の首里城正殿にも、龍のほか鳳凰が装飾として使われていたことでしょう。
そして玉陵にはひとつ、気になる装飾がありました。それが地蔵菩薩の彫刻です【写真】。この彫刻は浦添ようどれにある、英祖王を葬ったとされる石棺の彫刻と非常によく似ています。英祖王と尚真王の墓をつくるコンセプトに、ある連続性・共通性があったことをうかがわせます。
沖縄は仏教の影響をほとんど受けなかったという考えがありますが、それは全くの誤解です。むしろ琉球王国は「仏教王国」といえるほど仏教が盛んだった時代があったのです。玉陵はその時代の名残りをいまに伝える遺跡といえるでしょう。
参考文献:安里進『考古学からみた琉球史(下)』、比嘉実『古琉球の思想』
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コメント
どうも。今日はすいませんでした。
予想以上に素晴らしいページで驚いています。どうでもいいことですが、神女が戦争に立って闘うというのは古代中国王朝の戦闘と同じだなと先日、思っていました。一度、見てみたいです。雨乞いに戦争にと神女は大変ですね。
僕のページはこちら
http://d.hatena.ne.jp/gyoxay330/
http://www.mypress.jp/v2_writers/gyoxay330/
2つあります。
投稿: gyoxay | 2005年7月22日 (金) 01:21
「浦添ようどれ」東室尚寧王陵に輝緑岩製墳墓が三個ありますが向きが墓口に向いておらず西室に向いており不思議だと思っております。私の想像ですが、西室から尚寧王墓室に抜ける中室があったのではないかと思います。尚寧王の墓室が増設された時入り口が閉ざされたのではないでしょうか
投稿: 山口栄喜 | 2020年9月 2日 (水) 19:45