ニート君は島流し
琉球王国時代には現代の我々から考えると少々おかしな罰が存在していました。それは家族・一族のなかで学問や仕事に励まず遊んでばかりいる者や、親族の言うことを聞かない乱暴者などの問題児を、親族が王府に訴えて島流しにしてもらう刑です。つまり今風にいえば「ニート君島流しの刑」ですね。罪はあくまでも親族の訴えによって発生し、島流しの年数や流される場所まで、訴えた親族が自由に決めることができました。琉球王国時代のニート君は、史料中には「気随意(きまかせ)者」という表現で出てきます。
いくつかの事例を紹介しましょう。事件の当事者は、兼城間切(今の糸満市)糸満村のタラ玉城容疑者(26)。タラはある罪で渡名喜島へ3年の島流しの刑に処せられたのですが、渡名喜島へ向かう途中滞在した渡嘉敷島の家のメシがまずいという理由で舟を盗んで脱走、ひそかに糸満村の母のもとに帰りました。ところがタラのあまりの放蕩ぶりに母が耐えきれず、島流しにしてくれと役所に訴えて事が発覚、タラは逮捕され、宮古島へ再び島流しにされることとなります。
ここで興味深いのは、タラは脱走の罪で罰せられたのではなく、母からの訴えによる放蕩者を懲らしめるための刑で罰せられたことです。親族の訴えによる島流し刑のほうが重く、他の刑より優先されていたようです。ちなみに犯罪者であるタラを母がかくまったことについては、親子の情愛でしてしまったことだからと、罪に問われませんでした。
島流しにされたのは庶民だけではありませんでした。1687年、浦添按司は親戚の訴えで粟国島に流されます。彼はじつに23年間も島流しにされていましたが、彼はそれまでの地位を剥奪されず、お供もついていました。この異例の待遇から彼の島流しが一族のトラブルメーカーであったという単純な理由ではなく、何かウラがありそうな感じがします。ともかく王府の高官でさえ親族の訴えによる島流しの刑は例外ではなかったことがわかります。
ニート君たちにとってはまことに恐ろしい罰です。世が世なら僕も島流しの刑をくらうでしょうね(苦笑)やはり訴えられたら負けかなと思ってしまいます。
参考文献:比嘉春潮・崎浜秀明編『沖縄の犯科帳』、田名真之『近世沖縄の素顔』
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コメント
面白い話ですね! 法律に照らし合わせた刑より、道徳に照らし合わせた罰(かたちは刑ですが)の方が重んじられていたなんて。
投稿: あゆ | 2005年7月22日 (金) 21:02
あゆさま
そうですね。近代以前の法の観念は我々が考えているものとずいぶん違ったようです。
歴史をみる際は全てを現代の我々が持つ考えでみるのではなく、その場の感覚を持たなくてはいけない場合があるのが難しいところです。
投稿: とらひこ | 2005年7月23日 (土) 23:05
法律による刑よりも、
道徳判断による罪優位の処罰ですか・・・
現代にも参考になるような判決ですねぇ~
投稿: 風人 | 2008年5月 2日 (金) 22:19
>風人さん
こんどの裁判員制度で復活したりして…
でも一般市民が参加するわけですから、「情状」という面から判断される傾向が強くなるかもしれませんね。
投稿: とらひこ | 2008年5月 5日 (月) 15:54