ヤマト坊主は外交官
今回は琉球のお寺について紹介したいと思います。【写真】は那覇市首里の天王寺跡。対面には首里図書館や首里支所が立っています。天王寺は円覚寺・天界寺と並ぶ琉球三大寺のひとつで、第二尚氏初代の尚円王の時代に創建されたといわれます。もとは尚円が王位につく前に住んでいた邸宅で、尚真王の生誕地でもあったとも伝えられます。天王寺は臨済宗の寺だったのですが、現在はキリスト教会となっています。
天王寺入口の裏側にまわると、グスクのような石垣がそびえ立っていました【写真】。これだけの良好な保存状態の石垣は首里でもなかなかお目にかかれません。本来なら文化財に指定されてもおかしくない歴史的価値のある遺跡ですが、今ではここがどんな場所か知る人も少なく、ひっそりと存在しています。
古琉球の時代には天王寺をはじめとした禅寺が非常に重要な役割を果たしました。皆さんはお寺というと、お経をあげて心の平安を得たり、死者の成仏を祈るための宗教的な施設だと思う方が多いでしょう。もちろんそれは間違いではありませんが、500年前のヤマトや琉球のお寺は今でいう外務省と大学を兼ね備えたような施設だったのです。
琉球天王寺の住持であった檀渓(だんけい)和尚を紹介しましょう。彼は薩摩の出身で、禅宗寺院最高格であった京都南禅寺の派に属していました。日本史を勉強した方は1523年の寧波の乱(中国に派遣された細川氏と大内氏の使節が寧波で争乱を起こした事件)をご存じかと思いますが、この乱で国交断絶した日本と明の関係改善を仲介したのが、この檀渓和尚だったのです。
明は琉球を仲介して、事件を起こした犯人の引渡しと拉致された明の役人の送還を日本に要求します。そこで琉球王府は檀渓和尚に命じ、明皇帝の書簡をたずさえ京都の室町将軍のもとへ交渉に向かわせたのです。僧として高い知識と教養を備え、またヤマト出身でもあった檀渓は対日本外交の使者として適任でした。交渉はうまく運び、将軍の足利義晴は明との国交回復を約束して、書簡を檀渓に預けて明に転送するよう頼みます。また義晴は檀渓に南禅寺の名誉住持職も与えてその労をねぎらいました。檀渓は琉球国王の臣下であるとともに、国境を超えたヤマト禅宗ネットワークの傘下にも入っていました。彼はヤマトとのパイプを持った立場を利用して外交を展開できたわけです。
15世紀の尚泰久王の時代、琉球には数多くの寺院が建立されますが、これは王が単に世の平安を祈る信仰心から建てたのではなく、外交官としての僧侶の受け入れ施設をつくるためであったと考える説があります。琉球のお坊さんに対する見方がちょっと変わるような話ですね。
参考文献:村井章介『東アジア往還』、知名定寛「古琉球王国と仏教」(『南島史学』56号)
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