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2005年7月28日 (木)

ヤマト坊主は外交官

今回は琉球のお寺について紹介したいと思います。【写真】は那覇市首里の天王寺跡。対面には首里図書館や首里支所が立っています。天王寺は円覚寺・天界寺と並ぶ琉球三大寺のひとつで、第二尚氏初代の尚円王の時代に創建されたといわれます。もとは尚円が王位につく前に住んでいた邸宅で、尚真王の生誕地でもあったとも伝えられます。天王寺は臨済宗の寺だったのですが、現在はキリスト教会となっています。

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天王寺入口の裏側にまわると、グスクのような石垣がそびえ立っていました【写真】。これだけの良好な保存状態の石垣は首里でもなかなかお目にかかれません。本来なら文化財に指定されてもおかしくない歴史的価値のある遺跡ですが、今ではここがどんな場所か知る人も少なく、ひっそりと存在しています。

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古琉球の時代には天王寺をはじめとした禅寺が非常に重要な役割を果たしました。皆さんはお寺というと、お経をあげて心の平安を得たり、死者の成仏を祈るための宗教的な施設だと思う方が多いでしょう。もちろんそれは間違いではありませんが、500年前のヤマトや琉球のお寺は今でいう外務省と大学を兼ね備えたような施設だったのです。

琉球天王寺の住持であった檀渓(だんけい)和尚を紹介しましょう。彼は薩摩の出身で、禅宗寺院最高格であった京都南禅寺の派に属していました。日本史を勉強した方は1523年の寧波の乱(中国に派遣された細川氏と大内氏の使節が寧波で争乱を起こした事件)をご存じかと思いますが、この乱で国交断絶した日本と明の関係改善を仲介したのが、この檀渓和尚だったのです。

明は琉球を仲介して、事件を起こした犯人の引渡しと拉致された明の役人の送還を日本に要求します。そこで琉球王府は檀渓和尚に命じ、明皇帝の書簡をたずさえ京都の室町将軍のもとへ交渉に向かわせたのです。僧として高い知識と教養を備え、またヤマト出身でもあった檀渓は対日本外交の使者として適任でした。交渉はうまく運び、将軍の足利義晴は明との国交回復を約束して、書簡を檀渓に預けて明に転送するよう頼みます。また義晴は檀渓に南禅寺の名誉住持職も与えてその労をねぎらいました。檀渓は琉球国王の臣下であるとともに、国境を超えたヤマト禅宗ネットワークの傘下にも入っていました。彼はヤマトとのパイプを持った立場を利用して外交を展開できたわけです。

15世紀の尚泰久王の時代、琉球には数多くの寺院が建立されますが、これは王が単に世の平安を祈る信仰心から建てたのではなく、外交官としての僧侶の受け入れ施設をつくるためであったと考える説があります。琉球のお坊さんに対する見方がちょっと変わるような話ですね。

参考文献:村井章介『東アジア往還』、知名定寛「古琉球王国と仏教」(『南島史学』56号)

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2005年7月22日 (金)

ニート君は島流し

琉球王国時代には現代の我々から考えると少々おかしな罰が存在していました。それは家族・一族のなかで学問や仕事に励まず遊んでばかりいる者や、親族の言うことを聞かない乱暴者などの問題児を、親族が王府に訴えて島流しにしてもらう刑です。つまり今風にいえば「ニート君島流しの刑」ですね。罪はあくまでも親族の訴えによって発生し、島流しの年数や流される場所まで、訴えた親族が自由に決めることができました。琉球王国時代のニート君は、史料中には「気随意(きまかせ)者」という表現で出てきます。

いくつかの事例を紹介しましょう。事件の当事者は、兼城間切(今の糸満市)糸満村のタラ玉城容疑者(26)。タラはある罪で渡名喜島へ3年の島流しの刑に処せられたのですが、渡名喜島へ向かう途中滞在した渡嘉敷島の家のメシがまずいという理由で舟を盗んで脱走、ひそかに糸満村の母のもとに帰りました。ところがタラのあまりの放蕩ぶりに母が耐えきれず、島流しにしてくれと役所に訴えて事が発覚、タラは逮捕され、宮古島へ再び島流しにされることとなります。

ここで興味深いのは、タラは脱走の罪で罰せられたのではなく、母からの訴えによる放蕩者を懲らしめるための刑で罰せられたことです。親族の訴えによる島流し刑のほうが重く、他の刑より優先されていたようです。ちなみに犯罪者であるタラを母がかくまったことについては、親子の情愛でしてしまったことだからと、罪に問われませんでした。

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島流しにされたのは庶民だけではありませんでした。1687年、浦添按司は親戚の訴えで粟国島に流されます。彼はじつに23年間も島流しにされていましたが、彼はそれまでの地位を剥奪されず、お供もついていました。この異例の待遇から彼の島流しが一族のトラブルメーカーであったという単純な理由ではなく、何かウラがありそうな感じがします。ともかく王府の高官でさえ親族の訴えによる島流しの刑は例外ではなかったことがわかります。

ニート君たちにとってはまことに恐ろしい罰です。世が世なら僕も島流しの刑をくらうでしょうね(苦笑)やはり訴えられたら負けかなと思ってしまいます。

参考文献:比嘉春潮・崎浜秀明編『沖縄の犯科帳』、田名真之『近世沖縄の素顔』

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2005年7月15日 (金)

首里城の謎(5)続・死者の王宮

Photo_10 玉陵の欄干には龍や鳳凰など中国の想像上の動物が彫刻されています【写真】。龍は王権のシンボルとされ、首里城の装飾などに多く見られますが、実は琉球が薩摩の島津氏に征服される以前は、鳳凰が王のシンボルとして日輪とともに使われていたようです。古琉球の歌謡集『おもろさうし』には「べにのとり(紅の鳥)」という呼び名で登場します。

古琉球時代のものとみられる、神女(ノロ)が儀式で使う扇、漆器にも鳳凰と日輪が描かれています。古琉球時代に造られた石碑には、日輪を中心に鳳凰が2匹と瑞雲(めでたい雲)が描かれています。

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この形式は琉球独特の文様で、尚真王の時代からさかんに使われるようになりますが、島津氏によって琉球が征服された後には、石碑中に鳳凰は全く描かれなくなってしまいます。この変化は島津氏の征服によって王権が失墜してしまったことを示しているのでしょうか。

鳳凰の描かれている玉陵は、近世以前の琉球の古い形式を残すものであると考えられます。玉陵のモデルとなったとみられる尚真王時代の首里城正殿にも、龍のほか鳳凰が装飾として使われていたことでしょう。

Cimg0123_3 そして玉陵にはひとつ、気になる装飾がありました。それが地蔵菩薩の彫刻です【写真】。この彫刻は浦添ようどれにある、英祖王を葬ったとされる石棺の彫刻と非常によく似ています。英祖王と尚真王の墓をつくるコンセプトに、ある連続性・共通性があったことをうかがわせます。

沖縄は仏教の影響をほとんど受けなかったという考えがありますが、それは全くの誤解です。むしろ琉球王国は「仏教王国」といえるほど仏教が盛んだった時代があったのです。玉陵はその時代の名残りをいまに伝える遺跡といえるでしょう。

参考文献:安里進『考古学からみた琉球史(下)』、比嘉実『古琉球の思想』

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2005年7月10日 (日)

小林よしのり『沖縄論』に思うこと

先日、小林よしのり氏の『新ゴーマニズム宣言SPECIAL・沖縄論』が発刊されました。本の多くが沖縄の歴史について書かれているとのことで、ざっと読んでみました。小林氏は基本的な入門書に目は通して、いちおうは勉強されているように感じましたが、現在の基地問題や戦後の部分はともかく、沖縄の歴史についての評価は納得できません(逆の見方をすれば、沖縄の歴史について全くの素人であった小林氏が沖縄の通史を論じられるまで勉強した、ということもできると思いますが…)。僕は小林氏の言うところのいわゆる「サヨク」ではありません。しかし小林氏の論は、沖縄の歴史を少しばかりかじっている者として承服しかねる部分がまま、あるのです。

今回はいちいちその部分を指摘はしませんが、一言でいうと、せっかく沖縄の歴史の本を読んで勉強しながら、自分の主張の合う部分を抜き出して都合よく自説の補強に使用しているという印象を持ちました。20~30年前に議論されてきたことの焼き直しにすぎない部分もあります。この数十年に蓄積されてきた研究を無視しているのです。そのくせ自説に都合のいい最新の研究成果はちゃっかり押さえてあります。

僕が言いたいのは小林氏の政治的主張の是非ではなく、沖縄の歴史についての理解・評価の問題です。これは今回の『沖縄論』だけにとどまらず、現在の琉球・沖縄史の一般的な共通認識の問題があると思います。沖縄の歴史研究書を読んでいて感じるのですが、現在、歴史学研究界と一般の人々の琉球史認識の間には大きなギャップが存在しているように思います。ネットの某掲示板などに流れる琉球・沖縄史の認識も『沖縄論』をさらに孫引きしたようなものが多々見られます。このギャップは歴史研究者の側にも責任の一端があるのではないでしょうか。

一般向けの本は、最近では『県史47沖縄県の歴史』(山川出版社、2004)や『街道の日本史50琉球・沖縄と海上の道』(吉川弘文館、2005)などが出されましたが、この内容が一般の共通認識にまでなっていないと思います。それに沖縄の歴史に興味を持つ人々の疑問にこれらの本が本当に答えているか、という点もあります。要するに、最新の琉球・沖縄史の研究成果を広める努力をする余地がまだあるのではないかということです。

このブログでは教科書的ではない琉球・沖縄史の話をコラム形式で書いてきたわけですが、沖縄の歴史全体を概観するには難しいでしょう。どこか別のところで全体を概観できる教科書的なブログをつくる必要性を感じます。僕は全体を論じることができるほどの専門家ではなく、素人に毛が生えたような力量しかありませんが、自分の勉強も兼ねて「目からウロコの琉球・沖縄史:通史編」を書こうと考えています。この試みが小林氏の『沖縄論』への批判にもなることでしょう。

※「続・小林よしのり『沖縄論』に思うこと(1) 」「続・小林よしのり『沖縄論』に思うこと(2)」もご参照ください。

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2005年7月 9日 (土)

首里城の謎(4)死者の王宮

琉球国王の一族を葬った墓所は玉陵(たまうどぅん・玉御殿)という場所で、現在世界遺産にも登録されています。守礼門を那覇市街側に下って首里高校の対面に位置します。実はこの玉陵、首里城の歴史を知る上で重要な情報が秘められているのです。

玉陵の創建は1501年。琉球王国最盛期といわれた尚真王の時代に造られました。玉陵の最初の石門を入って左側に古い碑文が立っています【写真】。この碑文には玉陵に死後葬られるべき人々の名前が記されていて、尚真王をはじめ母のオギヤカ、尚清王などの名前があげられています。前回述べた浦添尚家の尚維衡は尚真王の長男なのですが、碑文中には記されていません。つまり玉陵は基本的に首里尚家一族の墓所なのです。

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尚維衡を排除した碑文の規定には、尚真王の母であったオギヤカの意志が強く働いていると見られます(オギヤカについてはまたの機会に述べます)。この碑文の最後には「千年、一万年もこの規定を守り、もし背く人がいれば、天に仰ぎ地に伏して祟るべし」と書かれています。まるでオギヤカの呪いが込められているようです。ところが、除外された尚維衡の遺骨は浦添ようどれに葬られた後、尚清王によって玉陵に移されました。一万年も守るべき約束で背けば祟られると書いてあるにも関わらず、王様が真っ先にやぶってしまったわけですね。

玉陵は石灰岩で造られていますが、その形を見てみると、板葺きの屋根、基壇の上に取り付けられた砂岩の欄干・正面の階段があり、ある建物をモデルにして造られていることがわかります【写真】。その建物とは首里城の正殿ではないかと考えられます。つまり王族の眠る墓所を、生前に住んでいた首里城正殿そっくりに模したのではないでしょうか。

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現在の首里城は18世紀(江戸時代頃)に建てられた建物を復元したものです。それ以前の首里城の建物は全く別の姿をしていました。まず赤瓦になったのは18世紀頃で、それ以前は黒色の瓦でした。さらに1671年以前は瓦ではなく板葺きだったことがわかっています。

玉陵は時代ごとに何度か改修された可能性もありますが、造られた1501年当時の首里城正殿の姿をある程度反映していると見て間違いないでしょう。玉陵からは尚真王時代の首里城正殿をうかがうことができるのです。それはまさに「死者の王宮」というべきものだったのではないでしょうか。

参考文献:首里城公園友の会編『首里城の復元』、高良倉吉『琉球王国史の課題』

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2005年7月 1日 (金)

歴史の闇に葬られた王子

尚寧王といえば、1609年島津軍の侵攻で降伏した悲劇の王として知られています。この尚寧の次の王には佐敷王子朝昌という人物が尚豊という名で即位していますが、もともと尚寧には別の正式な後継者(世子)がいたのをご存じでしょうか。彼の名は「尚煕」。またの名を「中城王子朝長」といい、尚寧のイトコに当たります。

本来、尚寧の次に国王になるはずだった尚煕が、なぜ尚豊にとって代わられたのでしょうか。一番の大きな原因としては島津氏の琉球征服があげられますが、その他の背景には王国の内部対立があったと考えられています。

Photo_8 もともと尚寧は浦添に本拠地を持つ尚家で、首里の本宗家とは別個の家でした。前代の尚永王には子が無く、王の娘婿だった尚寧王が浦添から国王に迎えられたのです。浦添尚家は尚真王の長男(尚維衡)の家系で本来なら王家の直系なはずですが、ある陰謀により廃嫡、浦添に追放されてしまい不遇の時代が続いていました。

本来の直系であるはずの浦添尚家が王の座につき、尚寧は見事、リベンジを果たしたと言えるでしょう。しかし尚寧政権の誕生は、首里尚家グループの中に新参者の浦添尚家グループが乗り込んでいくことを意味していました。尚寧王の時代には家臣の反乱や三司官の失脚などの様々な対立が起こりますが、これらは首里尚家と浦添尚家の対立によるものだったと考えられます。

尚寧には子がいませんでしたが、後継者として尚煕を指名していました。中城王子を名乗ることは次の王位継承者のみに許されたことでした。尚煕はこの中城王子だったのです。

ところが島津氏の琉球征服後、尚寧が死ぬ直前に後継者は首里尚家の尚恭(尚豊の子)に変更されてしまいます。この変更は薩摩が指示・決定したのではなく琉球内部で決定され、それを薩摩が追認する形で行われました。首里尚家グループは親薩摩派となることで勢力を伸ばし、浦添尚家から王位の奪還を図ったのです。征服後も尚寧政権は陰に抵抗を続けていて、薩摩側にとっても琉球での親薩摩政権誕生は望むところでした。

さらに後継者として決定された尚恭は、幼少で政務がとれないことを理由に彼の父である尚豊に変更されました。この変更は首里尚家グループの家臣、読谷山親方(毛鳳朝)が独断で薩摩藩に掛け合い変更させたものでした。尚恭の母は尚寧の弟、具志頭王子の娘でした。つまり尚豊への変更は浦添尚家の息のかかった尚恭を排除することを目的としていたわけです。

尚豊の即位後、後継者にはこの尚恭ではなく首里尚家の尚賢が選ばれました。尚恭が幼少であるとの理由は、あくまで建前だったことがわかります。

こうして尚豊らの首里尚家グループは王府の中枢から浦添尚家の勢力を追い出し、再び王権を奪還することに成功したのです。

参考文献:池宮正治「尚寧王の世子たち」(『首里城研究』3号)、豊見山和行『琉球王国の外交と王権』

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