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2005年6月25日 (土)

なんでも3つ

三国志・徳川御三家・維新三傑・キリスト教三位一体説…歴史には数字の「3」のつく言葉がよく登場します。今回は琉球の数をめぐる問題について考えてみましょう。

江戸時代以前の琉球(古琉球)では、何でも3つに分けることが好まれていたようです。例えば琉球国政の最高執行責任者は「三司官(さんしかん)」といいますが、これは3人の大臣です。琉球語では「世あすたべ」と称し、「国政を担当する長老たち」を意味します。琉球は3人の集団指導体制だったわけです。

琉球王府の行政組織も3つに分けられていました。それぞれの行政チームは「番」と呼ばれ、この3つの番が交替で3日を単位に出勤するしくみになっていました。例えばある番に所属している役人は、自分の担当の日に首里城へ出勤して終日勤務(番日)、次の日は半日勤務(番半)で、次の日はお休み。これを繰り返します。3日のうち1日半働くだけでいいなんて、何ともうらやましい話ですね。

琉球王国の都である首里を中心とした地域も真和志(まわし)間切、西原間切、南風原(はえばる)間切、と3分割されていました。近世にはとくに首里城近辺の3地域を「三平等(みひら)」と呼ぶようになっていきます。

琉球の公的な祭祀・儀礼をつかさどる神女(ノロ)組織も3分割されていました。トップの「聞得大君(きこえおおきみ)」の下には「三平等(みひら)の大あむしられ」と呼ばれる3人の高級神女がいて、その3人のノロの下に各地のノロが所属していました。

田畑から収穫された穀物も3分割されていたようです。近世では土地で収穫された米などを、国王への年貢、その土地の領主(地頭)の年貢、残りをその土地を耕していた百姓、というふうに配分していました。この3配分の方法は古琉球にさかのぼると言われています。

そういえば琉球王家の紋も「左三つ巴(ヒジャイグムン)」でしたね。3つの巴。これは一体、何を意味しているのでしょうか。

こうして見ると、古琉球では物事を3つに分けることを志向していたことがわかります。なぜ様々なものを3分割したのか。この謎について、これまた明確な答えは出されていませんが、古琉球人の観念に物事を3つに分ける考えが根付いていたことは間違いない事実でしょう。

参考文献:高良倉吉『琉球王国の構造』、入間田宣夫・豊見山和行『日本の中世5 北の平泉、南の琉球』

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2005年6月19日 (日)

沖縄戦・奇跡の生還-祖父母たちの戦争-

6月23日は沖縄戦が終結した日で沖縄では「慰霊の日」として休日となっています。とくに今年は戦後60年という節目の年でもあります。沖縄戦にちなんで僕の祖父母の戦争体験のお話です。

僕の祖父は戦争中、陸軍の第9師団(武部隊)に所属していました。第9師団は満州の関東軍から沖縄へ配備された沖縄守備軍の最精鋭部隊として知られていました。本来なら、この第9師団が主力となって米軍を食い止めるはずでした。ところが大本営は台湾への米軍侵攻を恐れて昭和19年に師団は台湾に転出させられ、祖父も台湾へ移動します。大本営の当ては外れ、結局台湾への敵上陸はありませんでした。台湾での祖父は毎日海岸で塹壕掘り。そのうち栄養不足から脚気になって入院、終戦を迎えます。大本営の判断ミス(結果的には)で祖父は運良く沖縄での戦闘をまぬがれたのです。もしそのまま沖縄にいれば恐らく生きて帰るのは難しかったでしょう。また沖縄に駐屯せず満州にいれば、その後のソ連軍侵攻でどうなったかわかりません。ともかく祖父は一度も戦闘に遭遇することなく、生き残ったのです。

祖母は「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電文で有名な太田実中将指揮下の海軍部隊で看護婦として従軍していました。戦闘の途中、流れ弾が頭部をかすり意識不明となり、祖母は死んだと勘違いされて、うず高く積まれた死体の山に投げ捨てられてしまいます。死体に埋もれた中でそのまま放置されていたのですが、偶然にも祖母のちょうど手の部分だけが表に見えていて、その手がかすかに動いたために発見され助け出されました。運良く手が出ていなければ、さらにかすかに動いた手に誰かが気が付かなければ…そのまま衰弱して誰にも知られず死んでいたかもしれません。

さらにある日の夜。壕にこもっていた祖母は、友人に月を見に行かないかと誘われます。もちろん上官に見つかれば大目玉です。祖母も当時若かったですし、ちょっとした出来心でコッソリと壕を抜け出して月を観賞しに行きます。ところが壕に帰ってみると、様子がおかしい…何と米軍の襲撃!壕のなかの全員が火炎放射器で黒コゲになって死んでいたのです…!何という偶然でしょうか。あの時、友人が月見に誘わなかったら…規則を守って誘いを断っていたら…そう考えるとゾッとします。この話を聞いた時、人の生死・運命は紙一重の差なんだなと思いました。そして祖母の強運に驚きました。何十年も立った記憶による証言ですから、きちんと検証する必要はあるでしょうが、祖母が過酷な体験をしてきたのは事実でしょう。

考えてみると戦争体験を語っている人というのは、あの戦争を生き残っているわけで、誰もが強運の持ち主といえるのではないでしょうか。祖父母がいなければ今の自分は無いわけで、今いる自分という存在は当たり前のものではなく運命のいたずらの結果にすぎないんじゃないか。慰霊の日が近づき、そんなことを思ってしまいます。

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2005年6月14日 (火)

首里城の謎(3)消えた王家の財宝

今回は首里城の謎シリーズの続きとして、琉球王家の財宝の謎についてお話しします。1879年(明治12)、琉球王国は明治政府により沖縄県として日本の一県に編入され、王家は東京に移住させられます。首里城は廃城となりますが、かつて王子の邸宅であった中城御殿(なかぐすく・うどぅん。今の県立博物館の場所)が尚侯爵邸として利用されました。

王家が持っていた宝物は一部東京へ運ばれましたが、多くはこの中城御殿に収蔵されています。宝物は王冠や衣裳、豪華な調度品、古文書や国王の肖像画(御後絵)などの絵画、その他膨大な数の種類があったといいます。実はこの王家の宝物、沖縄戦の直後に忽然と姿を消してしまうのです。

尚侯爵邸に出入りしていた真栄平房敬氏(プロジェクトXにも登場していましたね)によると、1945年(昭和20)沖縄戦が始まる前、王家の宝物を戦火から守るために対策をしたといいます。国王の黄金かんざしなど選りすぐった高価なものを3つの大金庫いっぱいに入れ、いくつかの王冠や衣裳などの貴重な品々も安全な場所に隠されました。御殿にはそれでも隠しきれない宝物があふれていて、それらはそのままに放置されていたといいます。

戦闘が終わり真栄平氏が中城御殿を訪ねてみると、米軍の猛攻で御殿は焼けていましたが、大金庫と宝物を収めていた離れの建物は奇跡的に残っていました。王家の財宝は戦争で全ては焼けていなかったのです。しかし中身を見てみるとカラッポ。誰かが持ち去った形跡が…これらの宝物は米軍により戦利品として略奪されたのです。それは中城御殿に隠されていた歌謡集の『おもろさうし』が1953年にアメリカから返還されたことからも明らかです。

現在、琉米歴史研究会という団体がアメリカで略奪された宝物の返還活動を精力的に行っています。その結果、「琉球国惣絵図」という絵図が返還されています。中城御殿にあった王冠の捜索も行っているようですが、いまだに発見できていません。おそらく王冠は今でもアメリカのどこかでひっそりと眠っているはずです。

戦争の傷跡というのは亡くなった人命はもちろんですが、このような沖縄の貴重な文化遺産にも及んでいるんですね。いつの日か尚王家の財宝がアメリカから返還されるのを期待しましょう。

参考文献:那覇市市民文化部歴史資料室編『尚家関係資料総合調査報告書Ⅱ美術工芸編』

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2005年6月 3日 (金)

中グスクの穴~ディープなグスク紀行~

世界遺産のひとつ、中城(ナカグスク)城は15世紀頃の護佐丸(ごさまる)の居城として知られていて沖縄観光で訪れる方も多いと思います。グスクのなかでも保存状態が良く、当時の姿をほぼそのまま残している貴重なグスクです。今回はとらひこによるマニアックな中城案内です。

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写真は中城の正門です。現在使われている公園入口から城へ入る最初のアーチ門は、実は裏門なんですね。この正門は石垣の上に建物をのせた形式で、首里城の瑞泉門や漏刻門と同じようなものだったと考えられています。

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ここから右の階段をのぼり「一の郭」へ向けて行く途中の「南の郭」に不思議なものがあります。それが石垣に開いている穴です。穴は南に向けて3つ開いています。おそらく気づいた方はそんなにいないのではないでしょうか。

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正門前の張り出した石垣にもひとつ、穴があります。僕が確認したところ、城全体で5つありました。これらの穴は、日本の城にも見られる銃眼(鉄砲や矢を撃つための穴)だと考えられています。前回書いた鉄砲の弾も穴付近から発見されています。中城でも敵が攻めてきた時に鉄砲を使ったのでしょうか。しかし城壁の限られた部分にしかないこと、矢や鉄砲で狙いを定めるには石垣がぶ厚くて難しいことから、実用的なものだったのか疑問もあります。

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そして最後にもうひとつ。「北の郭」の外側。石垣の根元に穴がありました。これは排水口ですね。金属の管はおそらく復帰前の公園時代に通されたものでしょう。グスクというと石垣の美しさが強調されていますが、その美しさは土地を造成したり、城に水がたまって崩れないようにしたりと、ハイレベルな土木技術があってはじめて成り立つわけです。600年前にこれだけのグスクを築いた技術者の存在も忘れてはならないでしょう。

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