なんでも3つ
三国志・徳川御三家・維新三傑・キリスト教三位一体説…歴史には数字の「3」のつく言葉がよく登場します。今回は琉球の数をめぐる問題について考えてみましょう。
江戸時代以前の琉球(古琉球)では、何でも3つに分けることが好まれていたようです。例えば琉球国政の最高執行責任者は「三司官(さんしかん)」といいますが、これは3人の大臣です。琉球語では「世あすたべ」と称し、「国政を担当する長老たち」を意味します。琉球は3人の集団指導体制だったわけです。
琉球王府の行政組織も3つに分けられていました。それぞれの行政チームは「番」と呼ばれ、この3つの番が交替で3日を単位に出勤するしくみになっていました。例えばある番に所属している役人は、自分の担当の日に首里城へ出勤して終日勤務(番日)、次の日は半日勤務(番半)で、次の日はお休み。これを繰り返します。3日のうち1日半働くだけでいいなんて、何ともうらやましい話ですね。
琉球王国の都である首里を中心とした地域も真和志(まわし)間切、西原間切、南風原(はえばる)間切、と3分割されていました。近世にはとくに首里城近辺の3地域を「三平等(みひら)」と呼ぶようになっていきます。
琉球の公的な祭祀・儀礼をつかさどる神女(ノロ)組織も3分割されていました。トップの「聞得大君(きこえおおきみ)」の下には「三平等(みひら)の大あむしられ」と呼ばれる3人の高級神女がいて、その3人のノロの下に各地のノロが所属していました。
田畑から収穫された穀物も3分割されていたようです。近世では土地で収穫された米などを、国王への年貢、その土地の領主(地頭)の年貢、残りをその土地を耕していた百姓、というふうに配分していました。この3配分の方法は古琉球にさかのぼると言われています。
そういえば琉球王家の紋も「左三つ巴(ヒジャイグムン)」でしたね。3つの巴。これは一体、何を意味しているのでしょうか。
こうして見ると、古琉球では物事を3つに分けることを志向していたことがわかります。なぜ様々なものを3分割したのか。この謎について、これまた明確な答えは出されていませんが、古琉球人の観念に物事を3つに分ける考えが根付いていたことは間違いない事実でしょう。
参考文献:高良倉吉『琉球王国の構造』、入間田宣夫・豊見山和行『日本の中世5 北の平泉、南の琉球』
| 固定リンク
| コメント (9)
| トラックバック (0)