琉球人の名前のつけかた
沖縄の歴史の登場人物の名前は珍しい名前がたくさん出てきます。日本本土では見なれない名字や中国風の名前など、疑問に思っている方もいるでしょう。今回は琉球人の名前のつけ方についてお話しします。
一般的に王国時代の琉球人は、日本風の名前と中国風の名前の二つを持っていたと言われています。例えば、前回の話で登場した蔡温(さいおん)は中国風の名前で、もう一つの日本風の名前は具志頭親方文若(ぐしちゃん・うぇーかた・ぶんじゃく)と言います。「親方」は身分を表わす位階名です。
しかし、このような名乗りかたが成立したのは、近世の琉球(江戸時代)に入ってからなのです。それでは、それ以前の名前は?…実は名字も中国名もありませんでした。あるのはその人個人の名前だけです。例をあげて説明しましょう。
例えば儀間真常(ぎま・しんじょう)は、中国からもたらされたサツマイモを琉球に普及させた琉球史上の有名人です。サツマイモが日本全国へ広まるきっかけを作った農業界の大恩人なのですが、彼が生きていた当時(16~17世紀)は「儀間真常」と呼ばれませんでした。彼は「儀間の大やくもい・まいち」と呼ばれていました。
「儀間」は代々継がれる名ではなく、彼が持っていた領地名です(つまり儀間村を領有。領地が変わればこの名前も変わります)。「大やくもい」は位階名(または役職名)で、最後の「まいち」が名前なのです。「真常」は子孫が彼の死後に付けた名です。また彼の家系はのちに「麻」姓を名乗りますが、真常には「麻平衡(ま・へいこう)」の中国名が付けられました。
ちなみに古琉球の王様は3つの名前を持っていました。例えば尚真王は、中国向けの名前が「尚真」で、本来の名前である「まかとたるがね」と、琉球向けの名前である神号「おぎやかもい」がありました。
これらの名前は近世になって中国風の名前が加わり、本来の琉球風の名前は公式に名乗られなくなり、「真常」とか「朝秀」などの漢字の名乗りに変わっていきます。それまでの名前だったものは童名(わらびなー。幼名)として残っていくのです。
琉球の庶民の名前は、近世に入ってもその人個人の名前(今でいう童名)しかありませんでした。
名乗り方は、「所属村+屋号+童名+姓に相当する名称」となるようです。例えば、「城間村の鍛冶屋小(カジヤーグヮー)、ムタ・宮城」とか。欧米風に最初に名前があって後に姓相当の名称が続きます。
何だかややこしい説明になってしまいましたが、つまりは江戸時代になるまで琉球人の名前は、近世で童名に当たる琉球風の名前しか無かったということですね。この童名ですが、実は戦前生まれだと自分の戸籍上の名前以外に童名を持っている方もいるそうです。今度、沖縄のオジイ・オバアに会う機会があったら聞いてみてください。
参考文献:田名真之『沖縄近世史の諸相』ひるぎ社
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コメント
はじめまして。
興味ぶかく読ませていただいております。
5月10日付の記事で、こちらのブログを取り上げさせていただきました。
事後承諾のかたちとなりましたが、ご容赦ください。
今後とも、ますます興味ぶかい記事のUPを期待しています。
投稿: 源内探偵団 | 2005年5月11日 (水) 02:08
いつも楽しく読ませていただいてます。
私の周りの沖縄男性の名(姓でなくて名のほう)は、画数の多い難しい漢字の方が多いのですが、これはたまたま私の周りに多いだけなのでしょうか、それとも一般的に難しい漢字の名前の方が多いのでしょうか。
つまらない質問ですみません。
ブログ楽しみにしています。
投稿: naoki | 2010年1月26日 (火) 14:40
> naokiさん
いつもありがとうございます。
今の名前の付け方の基準はよくわかりませんが、基本的に王国時代の習慣を継いで音読みで読むことが多いようですね。あと士族の名乗り頭の一字を継いでいる人もいることから、難しいと感じる漢字が多いかもしれませんね。
投稿: とらひこ | 2010年1月28日 (木) 14:45