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2005年5月28日 (土)

日本より100年早く伝わった鉄砲

沖縄の歴史の驚くべき事実、第2弾です。日本への鉄砲伝来は1543年の種子島へ火縄銃が伝わったことが広く知られています。しかし琉球にはこれより約100年さかのぼった時期に“鉄砲”が伝来していた事実が最近、明らかになりました。

琉球の鉄砲についての最古の記録は1450年。「火筒」と呼ばれる小型の銃砲があったと書かれています。これは火縄銃より古い形式の鉄砲で、映画の「もののけ姫」に出てきた石火矢と呼ばれた形式と同じものだったと考えられています。

15世紀、琉球の使者が室町将軍に会った際、「鉄放」をぶっぱなして京都の人を驚かせたというエピソードは有名です。また沖縄のグスク調査などでは、金属や石製の弾(最大10センチ)がごろごろ出てきます。これが鉄砲の弾丸だといわれています。

那覇港近くのロワジールホテルの裏には三重グスク【写真】という史跡があるのですが、ここは実は海上の砲台でした(現在はわずかに石垣が残っています)。琉球は当時の最新兵器である大砲を導入し、ここから那覇港に入ってくる海賊船に対して大砲を撃ったのです。1609年、実際に島津軍が琉球に攻めてきた時、この砲台から島津軍の船を砲撃していったんは撃退しています。

Cimg0409

この鉄砲は中国から伝わったものでした。当時の中国はすでに火薬と鉄砲が発明されていて、交流のあった琉球はここから入手したのです。また火薬の原料である硫黄が琉球ではたくさん採れました。つまり鉄砲に不可欠な火薬を作りやすかったわけです。

昔の沖縄の人はのんびりしてただけじゃなかったんだぞ、というお話しでした。それにしても沖縄の歴史は奥が深いですね。

参考文献:當眞嗣一「火矢について」(『南島考古』13号)、上里隆史「琉球の火器について」(『沖縄文化』91号)

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2005年5月22日 (日)

沖縄に追放されたモンゴル皇帝の末裔

沖縄の歴史には一般に知られていない、驚くべき事実がけっこうあります。今回はそのひとつを紹介しましょう。

13世紀頃にユーラシア大陸を席巻した史上最大の帝国・モンゴル帝国のうち、クビライが建てた大元ウルス(ウルスはモンゴル語で国)は1368年、明の朱元璋によって滅ぼされます。その時、明は元朝皇帝の次男と妃・娘を生け捕りにしましたが、彼らが沖縄に追放された事実はあまり知られていません。

元朝皇帝の次男の名前は「地保奴(ティポヌ)」。元朝17代天元帝(ウスハル・ハーン)の次男です。捕らえられた地保奴らは当時の首都であった南京に送られます。明皇帝の太祖は元がかつて良い政治も行ったことを考えて、その子孫である地保奴を殺すことは止めました。しかし国内においておくのもどんなものだろうかということで、多くの資財を与えて琉球に送った、と明朝の記録『明実録』にあります。

『明実録』の記事は単なる伝承などではなく、当時の出来事を正確に記録したものですから、元朝皇帝次男の琉球への追放はほぼまちがいない事実と考えられます。地保奴がその後どうなったのかは不明です。沖縄の華僑である久米村にも彼らに関する情報は残されていません。おそらく地保奴は家族とともに、故郷から遠く離れた南海の地でのんびり暮らしたことでしょう。

現在、沖縄に住む人のなかに、史上最大の帝国をつくったチンギス・カンの血をひく人がいるかもしれません。今となっては確かめようもありませんが…

参考文献:田名真之『近世沖縄の素顔』ひるぎ社

追記:地保奴が流された「琉球」とは沖縄のことではなく、台湾であるとの意見もあるようですが、コメント欄でも書いたように、僕が沖縄だと判断した理由は以下の通りです。

まず、根拠となる史料で、当時のリアルタイムの状況に最も近い『明実録』のなかでの沖縄と台湾の表現が異なること。『明実録』中で台湾のことを記す場合には「琉球」ではなく「小琉球」との表記がされています。つまり沖縄と台湾を書き分けているのです。

地保奴が流された地として表記されているのは「琉球」。つまり『明実録』の表記法で考えれば、台湾の場合、これが「小琉球」となるはずで、実録に登場する「琉球」は沖縄を指している可能性が高いといえます。

ただこれもあくまでも可能性であって、地保奴が流された地は新たな史料がないかぎり、間違いなくここだとはいえないのが現状です。

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2005年5月15日 (日)

琉球のお百姓は働かない?

沖縄というと本土と比べてノンビリした場所として知られています。沖縄の方言でも「テーゲー(適当、おおまか)」という言葉が否定的な意味ではなく、むしろ肯定的にとらえられている感があります。それでは琉球王国時代はどうだったのでしょうか。沖縄の「テーゲー」ぶりを歴史から見ていきましょう。

近世琉球(江戸時代)の百姓は、なかなか農作業をしませんでした。17世紀の薩摩藩から琉球への通達書には、「琉球では女性ばかり耕作していて、男は〝大形(テーゲー)〟にやっているようだ。ちゃんと働かせろ」との一節があります。

「農業は国の本」とする琉球王府はたびたび百姓たちに農耕を行うように命じますが、百姓のほうは魚ばかり獲っていて田畑はほったらかしという光景が一般的に見られたといいます。クワなどの農具も、18世紀に入ってもほとんど普及していない状況でした。

さらにある村では1年のうち60日も祭りがあって、農耕のさまたげになっていました。王府は百姓の漁業活動や祭祀を禁止したり、村々へ監督官を派遣して指導するなどの対策を行いますが効果は上がらず、百姓の農業のサボりは村役人の責任にされました。村役人にしてみれば、百姓は言っても聞かないし、お上からはうるさく叱られるし、ジレンマだったでしょう。

このようにみてみると、琉球の百姓は全然働いていないように思えます。しかし、その見方は適切ではありません。そもそも琉球は農業にそれほど向いていない土地なのです。島国のうえ平地が少なく、水源の確保が難しい。毎年来る台風などのきびしい気候的条件…ただ、そのかわりに目の前には広大な海があります。海からは一年を通じて豊富な魚介類が獲れます。よってわざわざ農業を一生懸命に行わなくても、海に出れば何とか生活できたわけです。

さらに江戸時代以前の琉球王国は交易国家だったので、農業が「国の本」ではありませんでした(もちろん農業が全然なかったわけではありませんが)。祭りについても、神に感謝するという昔からの伝統行事であって、別に遊んでいたわけではありません。

江戸時代に入って薩摩藩の支配下におかれると、日本の石高制などに見られる農業社会の考えが琉球にも持ちこまれます。琉球王府はそれまでの交易・漁業など「海」を中心とした国家から、農業など「陸」を中心とした国家への転換をこころみるのです。つまり、百姓の耕作のサボりは彼らの怠慢だったのではなく、国家の主導によって農業化が進められたものの、古来より続く琉球の社会的土壌がそれをなかなか受け入れなかったということなんですね。

参考文献:豊見山和行編『日本の時代史18 琉球・沖縄史の世界』吉川弘文館、安良城盛昭『新沖縄史論』沖縄タイムス社

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2005年5月11日 (水)

琉球人の名前のつけかた

沖縄の歴史の登場人物の名前は珍しい名前がたくさん出てきます。日本本土では見なれない名字や中国風の名前など、疑問に思っている方もいるでしょう。今回は琉球人の名前のつけ方についてお話しします。

一般的に王国時代の琉球人は、日本風の名前と中国風の名前の二つを持っていたと言われています。例えば、前回の話で登場した蔡温(さいおん)は中国風の名前で、もう一つの日本風の名前は具志頭親方文若(ぐしちゃん・うぇーかた・ぶんじゃく)と言います。「親方」は身分を表わす位階名です。

しかし、このような名乗りかたが成立したのは、近世の琉球(江戸時代)に入ってからなのです。それでは、それ以前の名前は?…実は名字も中国名もありませんでした。あるのはその人個人の名前だけです。例をあげて説明しましょう。

例えば儀間真常(ぎま・しんじょう)は、中国からもたらされたサツマイモを琉球に普及させた琉球史上の有名人です。サツマイモが日本全国へ広まるきっかけを作った農業界の大恩人なのですが、彼が生きていた当時(16~17世紀)は「儀間真常」と呼ばれませんでした。彼は「儀間の大やくもい・まいち」と呼ばれていました。

「儀間」は代々継がれる名ではなく、彼が持っていた領地名です(つまり儀間村を領有。領地が変わればこの名前も変わります)。「大やくもい」は位階名(または役職名)で、最後の「まいち」が名前なのです。「真常」は子孫が彼の死後に付けた名です。また彼の家系はのちに「麻」姓を名乗りますが、真常には「麻平衡(ま・へいこう)」の中国名が付けられました。

ちなみに古琉球の王様は3つの名前を持っていました。例えば尚真王は、中国向けの名前が「尚真」で、本来の名前である「まかとたるがね」と、琉球向けの名前である神号「おぎやかもい」がありました。

これらの名前は近世になって中国風の名前が加わり、本来の琉球風の名前は公式に名乗られなくなり、「真常」とか「朝秀」などの漢字の名乗りに変わっていきます。それまでの名前だったものは童名(わらびなー。幼名)として残っていくのです。

琉球の庶民の名前は、近世に入ってもその人個人の名前(今でいう童名)しかありませんでした。

名乗り方は、「所属村+屋号+童名+姓に相当する名称」となるようです。例えば、「城間村の鍛冶屋小(カジヤーグヮー)、ムタ・宮城」とか。欧米風に最初に名前があって後に姓相当の名称が続きます。

何だかややこしい説明になってしまいましたが、つまりは江戸時代になるまで琉球人の名前は、近世で童名に当たる琉球風の名前しか無かったということですね。この童名ですが、実は戦前生まれだと自分の戸籍上の名前以外に童名を持っている方もいるそうです。今度、沖縄のオジイ・オバアに会う機会があったら聞いてみてください。

参考文献:田名真之『沖縄近世史の諸相』ひるぎ社

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2005年5月 5日 (木)

落ちこぼれの大政治家

琉球の歴史で最もすぐれた大政治家といえば、蔡温(さいおん・1682~1761)をおいてほかにはないでしょう。彼は三司官(琉球の3人の大臣)という職について数々の改革をおこない、「蔡温以後の琉球には三司官が4人いる(三司官のほか、蔡温の教えがある)」と後の世にまで語られるほど大きな影響を与えました。しかしこの蔡温、若い頃は全く勉強ができない落ちこぼれだったのです。

蔡温の家はエリートの家系で、父の蔡鐸(さいたく)は歴史書の『中山世譜』も編集した有名人でしたが、どういうわけだか息子の蔡温はもの覚えが悪く、16才になっても遊びまわって満足に読み書きができない状態でした。ところがその年の夏、ある事件が起こります。仲間たちと月見の際、身分の低い家柄の友人と口論となり、彼に「蔡温は家柄がよくても全く勉強ができない。お前は衣装は立派でも百姓と変わらない」とバカにされ、他の友人も蔡温を笑いものにしたのです。蔡温はその場を逃げ出して一晩中泣きあかしたといいます。

それから彼は人が変わったように勉強しはじめました。その勉強ぶりはすさまじく、20才になる頃はほとんどの書物を読破し、21才に読書の師匠に任じられ、27才には福州琉球館(中国にある琉球大使館)のスタッフに抜てきされるほどの出世をします。バカにされたくやしさから必死に勉強し、ついに友人を見返してやったのです。

ですが、この頃の蔡温は自分の力を過信し、「俺は秀才だ」と少々カン違いをしていました。そんな時、中国で彼はある老人と出会います。老人は彼に「あなたはこの年になるのに何にも学問しておりません。おしいですな」と言われ、驚いた蔡温は「自分はほとんどの書物を暗記して、詩文も作れる。なぜそのようなことを言う」と反論し、老人と論戦しますが、ことごとく負けてしまいます。そこで蔡温は今まで形だけの学問しかしていなかったことを老人に教えられたわけです。

琉球に帰国した後の蔡温は、もう自分の才能を誇るそれまでの彼ではありませんでした。世に貢献すべく、さらに学問にはげむ彼は30才の若さで国王の教師に大抜てきされ、そこから琉球の難題に立ち向かい、大政治家と言われるまでに成長をとげていきます。

以上は彼自身の書いた自伝からの話です。偉大な政治家は、実はとても人間味のある人物であったことがわかりますね。

参考文献:蔡温『自叙伝』

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2005年5月 1日 (日)

首里城の謎(2)正殿前の道はなぜ曲がってる?

0301319首里城正殿の前の広場は御庭と呼ばれ、王国時代にはここで国王の即位式など様々な儀式が行われました。真ん中には浮道と言われる道が、御庭への入口である奉神門に続いています。首里城の観光に行った方はお気づきかもしれませんが、この浮道は正殿からまっすぐ伸びていないのです。正殿の正面に立ってみると、道が曲がっているのがはっきりわかります。御庭全体も見てみるときれいな正方形ではなく、いびつな台形です。どうしてこのような形になっているのでしょうか。

この謎に対する明確な答えは、今のところ出されていません。せまい地形の関係上そうなったという考えもありますが、発掘調査では以前の御庭は正方形だったらしいですから、わざわざ変形して浮道も曲げたことがわかります。

Cimg0663_3 ここで正殿前に立って浮道のほうを見てみると、その先の奉神門から石垣で囲われた木々が見えます。それが首里森御嶽と呼ばれる聖なる場所です。

この場所は琉球の神話で天上の神が最初に降りた聖地であるとされ、正殿ができる以前に存在したと考えられます。つまり首里城が建てられてからこの聖地をつくったのではなく、もともとある聖地の周りに首里城を建てたわけです。正殿の正面からまっすぐ道をつくると聖なる場所は見えません。そこで聖地に向けて道を伸ばして、王のいる正殿から首里森御嶽への通り道にしたのではないかと考えられます。ちなみに浮道は国王や中国の使者しか通ることのできない神聖な道でした。  

その他、御庭がいびつな台形なのは風水の関係から建物の方角を変えたためとする説も出されています。近世(江戸時代)、首里城の御庭で行われる儀式で真北が重視されるようになったため、浮道を東西の軸に合わせたのではないかというのです。

いずれにせよ、沖縄のグスクはもともと聖地だったものから発展していって、その周りに石垣をつくっていったものが多くみられます。首里城もそのような形であったことが正殿と首里森御嶽との関係からうかがえます。                       

参考文献:『首里城入門-その建築と歴史』ひるぎ社、安里進「首里城正殿基壇の変遷」(『首里城研究』2号)、伊従勉「首里城正殿唐破風の起源とその改修について」(『首里城研究』3号)    

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