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2005年4月24日 (日)

首里城の謎(1)首里城のモデルはお寺?

琉球王国の中心であった首里城は世界遺産にも認定され、また沖縄の観光のスポットとして有名です。本土のような天守閣はなく、むしろ中国の宮殿を思わせる独特の建築様式をしていますが、この一風変わった城にはいくつかの謎が存在しています。今回から数回に分けて首里城の謎にせまりたいと思います。

現在、首里城の広福門前には、琉球の貿易立国の理念をうたった「万国津梁の鐘(1458年製造)」が掛けられています。もともとは首里城の正殿に掛けられていました。鐘は日本のお寺にある梵鐘とまったく同じ形です。なぜ、王の住む城(グスク)にお寺の梵鐘が掛けられていたのでしょうか。 実は首里城の成り立ちには、お寺が深く関与しているのではないかと考えられるのです。

首里城の鐘と同じような例は、越来城の鐘(1457年)や大里城の雲板(1558年)などがあります。雲板は禅宗の寺院で使われる金属製のドラのようなものです。15世紀頃の琉球のグスクには、やはりお寺の影響が見られます。

0301317 さらに首里城正殿の1階部分は下庫理(しちゃぐい)、2階部分は大庫理(うふぐい)と呼ばれていました。庫理(庫裡)とは寺院のある建物を表す言葉です。そして正殿の2階にある、王の玉座と言われる場所(御差床・うさすか)を見てみると、寺院で仏像を安置する須弥壇(しゅみだん)と言われる台に非常に似ていることがわかります【写真】 。そもそもこの場所は本当に王の玉座だったのか不明なのですが(とりあえず王の座る椅子を置いてあるだけなのです)、首里城正殿の中心部に寺院の須弥壇に似ている台が設置されている事実からも、首里城での寺院の影響は無視できないほど大きいものであることが理解できると思います。

実は、どのような形で首里城に寺院の様式が取り入れられたのか、詳しいことはまだわかっていません。ただ、その謎を解くヒントはあります。15世紀頃(日本では室町時代)から、日本本土から禅宗の僧侶がさかんに琉球に渡来していた事実があります。彼らは琉球国王のサポートのもとに寺院をつくり、琉球で禅宗を広めていたことがわかっています。当時の国王も仏教を信仰していて、そのなかで首里城をはじめとしたグスクにも寺院の様式が取り入れられたのではないかと推測されます。

いずれにしても、沖縄の城(グスク)は、単なる城とはちがう、様々な要素を持っていたことがわかりますね。「グスク」についてはまた別の機会で述べたいと思います。

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2005年4月17日 (日)

琉球人のマゲとターバンの話

昔の琉球人男性の髪型は日本のチョンマゲとはちがう、総髪(といっても実際は頭頂部を少し剃っていましたが)で頭のてっぺんに髪を結う「カタカシラ」という独特の髪型をしていました。その姿は大河ドラマ「琉球の風」や、沖縄の伝統芸能などで見たことがあるかと思います。この髪型の由来は、琉球最初の王といわれる舜天の頭の右部分にコブができていて、それを隠すためにコブ部分に髪を結い、のちに皆がマネしたものと言われています。

しかし最初に説明した「カタカシラ」は髪を結ってあるのが頭のてっぺんで、全然右側に結ってないじゃないか、と疑問に思われる方もいるかもしれません。あまり知られていませんが、実は琉球人の髪型は一回、大きなモデルチェンジをしているのです。もともとは舜天の故事にあるように、琉球人は右のもみ上げあたりに髪を結っていました。5~600年前頃(日本では室町時代)の日本や中国の記録には、はっきり琉球人は髪を右側(左とも)に結っていたとあります。この事実があまり知られていないのは、当時の琉球人の姿を描いた絵図がほとんど残ってないからでしょう。

モデルチェンジをしたのは17世紀の中頃(日本では江戸時代)です。その頃、中国では漢民族の明王朝が滅亡して女真族の清王朝が誕生していました。清王朝は女真族の風俗である弁髪(ラーメンマンの髪型ですね)を漢民族に強制しました。琉球では清王朝が弁髪を強制してくるのではないかと非常に恐れていました。当時の漢民族は野蛮な女真族の髪型をするのを恥としていましたが、琉球でもそうだったようです。結局、琉球へは強制されなかったわけですが、琉球人の髪型がモデルチェンジしたことと、同時期に起きた弁髪をめぐる問題は何らかの関係があったと考えられます。

Photo_5 また5~600年前の琉球人は、インド人のようなターバンを巻いていました。それが琉装の男性がかぶる冠のハチマキ(鉢巻)です【画像】。あれはもともと長い布を頭にぐるぐる巻きにしたものだったのです。1600年頃、そのターバンを固めて冠状にしたものが現在見るようなハチマキです。今度ハチマキを見る機会があればよく観察してください(琉装をした男性は沖縄の祭りの歴史行列や首里城公園内で見れます)。きっとターバンっぽく?見えてくると思いますよ。

※【画像】は『ベンチャー航海記』挿画をとらひこが筆写

参考文献:ラヴ・オーシェリ、上原正稔編『青い目が見た大琉球』

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2005年4月12日 (火)

ジュゴンの肉を食べ、くじらのフンを嗅ぐ

「人魚」と言われた海洋哺乳類のジュゴンが、かつて沖縄で食べられていたことをご存知でしょうか。琉球王国時代にジュゴンは不老長寿の薬とされ、とくに国王が食べるために税として八重山の新城島に課されていました。

ジュゴンは顔立ちが馬に似ているため当時は「海馬」と呼ばれていました。新城島ではジュゴンの豊漁を祈るウタキ(聖なる場所)があり、捕獲したジュゴンの頭蓋骨が供えられていたそうです。漁は網を使い、捕獲量は少なかったようですが、獲れたジュゴンの肉は塩漬けか薫製など長期保存できるように加工され、首里の王様のもとへ運ばれました。でも、あんなにかわいいジュゴンを食べてしまうなんて、ちょっとかわいそうですよね。

海産物を納めたのはジュゴンだけではありませんでした。「くじらのフン」もそうです。フンといっても本当の「ウンチ」ではなく、正確にはマッコウクジラから放出される分泌物の一種で、灰白色のかたまりとなって海岸に打ち上げられるものだそうです。そのかたまりは良い香りをしているらしく、竜涎香(りゅうぜんこう)という香料として世界各地で珍重されていました。

琉球王国時代にはこれを「鯨糞(くじらのフン)」と呼んで、海岸に打ち上げられた「くじらのフン」を見つけた者は必ず各地の役所へ届けるように定めていました。役所では計量後、厳重に封印して都の首里へ送られました。良質の「くじらのフン」はだいたい500gで米750kgと交換されたそうですから、相当高価なものであったことがわかります。

「くじらのフン」の売却代金のうち、3分の2が薩摩藩、3分の1が琉球に分けられ、また日本本土の徳川将軍や大名たちに献上されたりもしました。たかが「くじらのフン」ですが、大きな利益を琉球王府と薩摩藩にもたらしたのです。しかし発見者にはわずかの褒美だけが与えられただけで、それほどフンの恩恵にあずかることはできませんでした。

ジュゴンは今でもたまに漁の網にかかってしまうものもいるそうです。現在では天然記念物に指定されているので、さすがに食べる人はいないでしょうが…。一体どんな味だったんでしょうね。「くじらのフン」は今でも海岸に打ち上げられるのかわかりませんが、皆さんも沖縄の海へ遊びに行った際には探してみてはいかがでしょうか。

参考文献:高良倉吉『おきなわ歴史物語』ひるぎ社、『新琉球史・古琉球編』琉球新報社

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2005年4月11日 (月)

琉球・沖縄の歴史ブログ、はじめました

昨今、巷では沖縄ブーム・沖縄移住ブームが叫ばれ、沖縄への関心が高まっています。「癒しの島」だとか、本土とは異なった文化を持った島、また「基地の島」だとかいろいろなイメージでとらえられる沖縄ですが、沖縄の文化、歴史って実はあんまり知られてないのではないでしょうか。

またそれらを紹介するサイトも少なく、あっても20年前の入門書を参考にされてたりと、沖縄の歴史の魅力が充分に伝えられていなかったように思います。

そこで、このブログは最新の歴史研究書や僕が調べた成果をもとに、知られざる琉球史・沖縄史をコラム形式で紹介していきます。これから沖縄の歴史を知りたい方にもわかりやすく、また勉強してる方にも「面白いな」って思われる内容にしていきたいと考えてます。

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