2009年11月21日 (土)

尚徳王=倭寇?

尚徳王は第一尚氏王朝最後の王です。この王は別名「八幡之按司」という神号であり、1466年、自ら兵2000を率いて喜界島を征服した際、その勝利を記念して那覇の安里に八幡宮を建立しています。尚徳王が八幡を信仰していたことから、彼が倭寇の流れをくんでいるという一部の説があります(ナナンダッテー)。「八幡神は倭寇の守護神である」との理由からです。この説は妥当な説なのでしょうか。

結論からいうと、この説には疑問を持たざるをえません。倭寇うんぬん以前に、八幡神が本来持っていた性格を看過しているからです。それは八幡神の「軍神」としての性格です。

尚徳王がなぜ八幡宮を建立したのか。喜界島に遠征する前、尚徳王は八幡大菩薩に一矢で鳥を射たら遠征成功、はずれれば失敗と願をかけ、見事に射落としました。やがて鳥を落とした地に八幡宮を建て、弓矢・甲冑・鐘を奉納したのが始まりです。つまりこの由来譚からわかるように、尚徳は喜界島との戦争の勝敗に関連してこの宮を建てたのであって、この八幡神が軍神としての性格に関連していたのは明白です。素直にこの状況から考えれば、わざわざ強引に倭寇説を持ち出すまでもありません。倭寇説の可能性はゼロではないにせよ根拠としてはかなり薄弱で、「歴史論は100パーセント過去の事実を証明できない」という点から単にゼロではないというだけの話です。

「琉球の王なのに日本の神を祭っている!やはり倭寇か!」と思う方もいるかもしれませんが、ちょっと待ってください。15世紀当時の琉球で日本の神々を祭るのは珍しいことではありません。1452年(尚金福の時代)、王府ナンバー2の地位にいた中国人の懐機は海中道路(長虹堤)の完成を記念して、那覇に伊勢神宮を勧請しています。中国人が日本の神社を建てたのです。尚徳王=八幡=倭寇という同じ論理でいくと懐機=日本人=倭寇だったと結論づけられるでしょうか?いや、僕はならないと思います。

さらに尚巴志は1436年、懐機とともに中国道教(正一教。五斗米道)の総本山に護符を要請しており(『歴代宝案』)、彼が道教を信仰していたことがわかっています。そうなると尚巴志は中国人だった!?あれ?尚徳って尚巴志の孫だったのでは・・・とすると尚徳=中国人!?・・・・もちろん尚巴志=中国人の可能性はゼロではありませんが、ちょっと無理があります。尚徳=八幡=倭寇の場合もそれと同じことです。

当時の那覇は諸民族雑居の国際港湾都市で、外の世界からさまざまな人がやってきて住みついていました。彼らがもたらした外来の各宗教は、尚徳王代の時点ですでに天妃・道教信仰や仏教の禅宗・真言宗、熊野信仰、伊勢信仰などが存在し、定着していました。これらの宗教はやがて融合し、琉球在来の宗教とも混交していきました。例えば15世紀中頃、中国の天妃宮・道教の天尊廟には仏教寺院の鐘が設置され、何とヤマト禅宗の流れをくむ僧が常駐していました。『おもろさうし』には明らかに天妃信仰を謡ったオモロもあり、また日本の神・仏をノロ(神女)が降ろすというミセゼル(神託)もあります。

懐機も尚徳も日本の神々がすでに琉球で信仰され、日常的な風景になっていた状況で神社を勧請したわけで、尚徳は八幡大菩薩が軍神だと知っていたからこそ喜界島との戦争でその霊験を頼ったのです。それが尚徳が八幡宮を建てた理由です。なお尚徳の神号は同時代史料では「世高王」「せだかあんじおそい(世高按司添)」としかなく、「八幡之按司」は後世の記録でしか確認されていません。

ちなみにおもろを研究した田島利三郎のノートによると、安里八幡宮のご神体は何と熊野権現であったと記しており、尚徳王が奉納した弓矢と尚徳佩用の甲冑、そして別堂に祭ってあった為朝公の面は明治14、5年(1881~82)頃、鹿児島より来た山伏に持ち去られたとメモしています。事の真相は不明ですが、八幡神と熊野神がごっちゃになって信仰されていた可能性もあるのです。「純粋」な日本の神々ではない琉球の宗教の状況を念頭に置きながら、こうした問題をみていく必要があるように思います。

※琉球王倭寇出自説に関しては【こちら】もご参照ください。三山虚構説については【こちら

参考文献:池宮正治「琉球国王の神号と『おもろさうし』」(『琉球大学法文学部日本東洋文化論集』11号)、上里隆史「15~17世紀における琉球那覇の海港都市と宗教」(『史学研究』260号)、吉成直樹・福寛美『琉球王国誕生』

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2009年11月18日 (水)

「奄美と沖縄をつなぐ」イベント、終了

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11月14日(土)に東京新宿で行われた「奄美と沖縄をつなぐ」イベント、大盛況のうちに終わりました。参加された皆さん、どうもありがとうございました!また主催者の喜山さん・持田さんをはじめ、出演者の皆さんも大変お疲れ様でした!

僕はイベントの第1部「異種格闘型トークセッション」にパネラーとして参加しました。そのほかの参加者は『奄美自立論』著者の喜山荘一さん(与論島出身)、東京で奄美料理の店「奄美の家」を経営する圓山和昭さん(奄美大島出身)、そして元「りんけんバンド」でうちなー噺家の藤木勇人さん(沖縄島出身)です。それぞれ異なった出身というだけでなく、さまざま分野で活躍されている方が集った異色の組み合わせです。ここでは1609年の島津軍侵攻から400周年を迎え、隔てられていた奄美と沖縄をどのようにつなげられるのか、奄美や沖縄、それぞれの立場から模索しました。

喜山さんはこのイベントを企画するに当たり、このテーマが自らにとって切実なテーマであったことを述べ、従来の400周年に関わるシンポジウムが歴史そのものを探ることに偏重していること、若い世代の参加が少ないことをあげていました。そうした問題意識のうえで本イベントを立ち上げたとのこと。著書の『奄美自立論』では、ときに激しい言葉で奄美の置かれた「二重の疎外」を訴える喜山さんですが、僕はこうした批判が決して机や研究室から座って生まれた観念的なものではなく、喜山さん自身の置かれた立場・環境からくる切実な実感からくるものであることは、重く受け止める必要があるように思いました。トークセッションでのお話から、そのような喜山さんの気持ちを感じることができたように思います。

沖縄で知らない人はいない藤木勇人さんのトークは、まさにプロ。口を開けば一気に聴衆を魅了し、爆笑の渦に引きずりこみます。どちらかというと話が苦手な僕は大変勉強になりました。また今回、藤木さんのご両親が奄美出身であったことを初めて知りました。コザと奄美の話から、両者の戦後の歴史の歩みの相違が浮き彫りになったような気がしました。基地の島として開発・整備されていく沖縄とひどく貧しい状況だったという奄美との対比です。ただそのため藤木さんが「奄美には古い沖縄が残っている」とお話しされていたのも印象的でした。

圓山さんは「奄美の家」のお店で働いているそのままで登場。いわば「正装」ですね。奄美大島でも龍郷の出身である圓山さんは「奄美は奄美だ」という郷土への熱い想いを語っていました。その想いが伝わったのでしょう、会場からの声援と拍手がとくに多かったような気がします。奄美にいた頃の「シマ」を中心に生活していた感覚、「奄美大島」すらも意識する機会がなかったというお話は興味深いものでした。

僕はいちおう歴史をやっている人間として、奄美と沖縄がかつてつながっていた時代(古琉球)の頃の話と、僕の奄美体験などを紹介しました。実は僕は以前、沖縄の地域史編纂に関する調査で奄美大島を訪れ、奄美の地域史の状況などをインタビューしたことがあります。それをもとに、歴史像を構築するという面から今後の奄美と沖縄についての展望を提案するつもりでしたが、残念ながらタイムオーバーで詳しく話せず。

琉球史研究においては、沖縄側から奄美地域の歴史を積極的に組み込んでいこうとする動きは確実に起こっています(昨今、一部の研究者から主張されている「沖縄島中心史観」批判なるものは10~20年前の水準の研究を対象としており、必ずしも最新の動向が追えていないように見えます)。こうしたことにくわえ、奄美における歴史の普及は研究面だけで進めるのではなく、かつて沖縄側が実行し成功した「総合プロジェクト型」を参考に進めていくのも選択肢のひとつとして考えてもいいように思いました。・・・まあこの話は次の機会にということで。

トークセッションの次は第2部「シマウタ流れコンサート」。これがまた斬新な内容で、5つのテーマごとに各島のウタを披露していくもの。同系統のウタが島によってどうちがうのか、同じなのかが楽しみながら実感できます。最後はお客さんも揃ってカチャーシー(笑)。非常に盛り上がりました。

イベント自体はこれで終わりましたが、「奄美と沖縄をつなぐ」試みはこれからも継続していく必要があります。僕の今度発表する予定の論文は古琉球時代の喜界島に関する内容です。今後、僕も奄美を自身の研究テーマとしてふくめていこうと思っています。

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2009年11月14日 (土)

新刊、ついに登場!

みなさま、大変長らくお待たせしました。わたくし、とらひこの著作第3弾がようやく完成です!

タイトルは・・・

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『琉日戦争一六〇九 ―島津氏の琉球侵攻―』

です!今回は前作、前々作とはうってかわって硬派な歴史ノンフィクション!総ページ数352ページに及び、読み応えのある重厚な内容です!

【本の帯より】

本格的歴史ノンフィクション登場!
独立王国・琉球、最大の危機
戦(いくさ)の嵐、迫る。

最新の歴史研究の成果で「島津軍の琉球侵攻」を、琉球王国、日本、そして海域アジアを巡るダイナミックなスケールで描き出す!

独立王国・琉球を狙う「九州の覇者」、薩摩島津氏。そしてアジア征服の野望を抱く豊臣秀吉、対明講和をもくろむ徳川家康。ヤマトの強大な力が琉球に迫る。これに立ち向かう琉球王国・尚寧王と反骨の士・謝名親方。海域アジア空前の「交易ブーム」の中、うごめく海商・禅僧・華人たちが情報戦(インテリジェンス)に絡み合う。『目からのウロコの琉球・沖縄史』『誰も見たことのない琉球』で大注目の若き琉球歴史研究家、満を持しての書き下ろし!

【目次】

第1章 独立国家、琉球王国 ~プロローグ・琉球の章~ 
 
(1)南方の海洋王国  
(2)嘉靖の大倭寇  
(3)衰退する中継貿易  

第2章 九州の覇者・島津氏と琉球 ~プロローグ・島津の章~ 

(1)戦国大名・島津氏への道  
(2)あや船一件  
(3)九州の覇者・島津氏  

第3章 豊臣秀吉のアジア征服戦争 

(1)秀吉のアジア征服への野望  
(2)琉球使節、聚楽第へ  
(3)琉球発インテリジェンス、明を動かす  
(4)王府内部の確執  
(5)「鬼石曼子」と泗川の戦い    
 
第4章 徳川政権の成立と対明交渉    

(1)朝鮮からの撤退と琉球・島津氏  
(2)日明講和交渉と聘礼問題  
(3)戦争回避、最後のチャンス 

第5章 島津軍、琉球へ侵攻 

(1)奄美大島制圧  
(2)徳之島での奮戦  
(3)今帰仁グスク陥落  
(4)つかの間の勝利  
(5)首里城明け渡し 

第6章 国敗れて

(1)尚寧王、徳川将軍に謁見 
(2)掟十五カ条  
(3)「日本の代なり迷惑」  

第7章 「黄金の箍(たが)」を次代へ ~エピローグ~

今年は1609年の島津軍の琉球侵攻からちょうど400年目。この歴史的事件を最新の研究、新史料をもとに描き出しました。しかも研究者向けの専門書ではなく、一般書として書き下ろしです。一般向けですが、内容はおそらく、どの関連書・関連論文よりも新しい内容となっています。

新刊はまもなく発売されますが、まずはボーダーインクのサイトのほうで先行予約を行います。400年前のあの事件とは何だったのか。現代の沖縄を考えるためにも必読の書です!ぜひ読んでみてください!

予約はこちらからどうぞ!】 ※送料無料!

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2009年11月 8日 (日)

とらひこと行く古道ツアー!

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わたくし、「とらひこ」による東京発の歴史ツアーのお知らせです。

【琉球古道を歩く旅】

琉球王国の時代、王都の首里城から沖縄島各地にはりめぐらされた街道の「宿道(すくみち)」。現在では戦争や土地開発などで多くが改変されてしまいましたが、それでも一部は往時の姿をとどめています。今回のツアーは『目からウロコの琉球・沖縄史』著者の座学による琉球の歴史と道の解説にくわえ、尚寧王が築いた首里城から浦添グスク間の街道、そして宿道のなかでも最も残りのよい国頭方西街道のうち、恩納村の仲泊―真栄田の一里塚間を実際に歩き、琉球の歴史ロマンに思いをはせます。

旅行期間:2009年12月11日(金)~12月13日(日)
募集人員:20名(最少催行人員15名)
添乗員:同行致します
募集締切:2009年11月30日(火)まで

【日程表】

◆12/11
羽田空港⇒(ANA121便)⇒那覇空港→昼食兼上里先生による事前学習(約2時間)→
→首里城【『中頭方西街道』を歩く(首里城~大名~経塚~安波茶~浦添城址)】→ロワジールホテル那覇泊

朝食×
昼食○
夕食○

◆12/12
ホテル→【『国頭方西街道』を歩く(仲泊一里塚~仲泊遺跡~山田の石橋~山田グスク~フェーレー岩~真栄田一里塚)】
→琉球村にて昼食→【バスにて「座喜味城址」・「喜名番所」見学】→ロワジールホテル那覇泊

朝食○
昼食○
夕食○

◆12/13
ホテル→【バスにてグスクロードを巡る(斎場御獄~知念城址~垣花樋川~糸数城址)】→国際通り自由行動(昼食各自)
→那覇空港⇒(ANA130便)⇒羽田空港

朝食○
昼食×
夕食×

【旅行代金等】
1名1室:110,000円/2名1室:89,000円/3~4名1室:86,000円

【旅行代金に含まれるもの】
旅行日程に明示した運送機関の運賃・料金、食事代、施設利用料金(入場・拝観・ガイド等)、及び消費税等諸税。宿泊費、食事代、及びそれぞれの税、サービス料金。

【旅行参加条件】
3日間で約15km程度歩きますので、参加は12歳以上の方で、旅行参加にあたり健康上支障の無い方に限らせていただきます。

今回のツアーのポイントは、街道を歩くというこれまでにない新しい歴史ツアーであること、僕が事前に座学を行い、さらに同行して解説することです。本土にお住まいでありきたりの沖縄の旅に飽きた方、沖縄の歴史と文化をより深く知りたい方、誰も見たことのない沖縄の風景を堪能したい方、ぜひこのツアーにご参加ください!

くわしくはこちらまで!

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2009年10月31日 (土)

島津侵攻秘話(5)

琉球に侵攻した島津軍の強さ

1609年に琉球を襲った島津氏の軍勢。その強さは戦国日本のなかでもトップクラスに入るものでした。ある人は「琉球はたった3000人の軍勢にやられた」と言います。たしかに兵数が勝敗に影響するのはそうなのですが、戦争は単純な数の勝負で決まるわけではありませんし、島津兵3000人が本当に「たったこれだけ」と言えるのかは、検討の余地があります。

琉球侵攻からさかのぼること11年前の1598年。豊臣秀吉の明征服戦争で朝鮮半島へ出兵した島津義弘・忠恒(家久)らは、慶尚道の泗川(サチョン)において明・朝鮮連合軍と激突します。董一元率いる兵数20万と号した明の主力軍です(実際には3万7000ほどだったとも)。対して泗川倭城に籠もる島津軍は5000にも満たない兵数です。しかもこの軍勢は独立した5つの寄せ集め軍団で成り立っていました。

10月、明・朝鮮軍が泗川倭城を攻撃します。義弘らは押し寄せる敵を鉄砲で撃退し、さらに明軍の大砲の火薬が誤爆すると、混乱する明軍の中へ島津軍が突撃しました。義弘・忠恒も自ら敵兵を討ち取る激戦となり、やがて明・朝鮮軍の全面的な敗走となりました。圧倒的に不利な戦況をくつがえしての島津軍の大勝利です。これが有名な「泗川の戦い」です。

この日討ち取られた明・朝鮮軍の兵士は実に3万余にものぼったといいます。この戦いによって明軍の主力を殲滅した島津軍は、明・朝鮮の人々から「鬼石曼子(グイシイマンズ)」と呼ばれ恐れられました。日本でも五大老・五奉行ら豊臣政権の首脳部は、日本軍10万の撤退成功は泗川での島津軍の勝利にあるとして、最大級の賛辞を贈っています。

ちなみに泗川の戦いでは、琉球侵攻軍の大将となるあの樺山久高も参加しています。この時、久高は激戦のなかで身長6尺(180センチあまり)の江南出身の明兵と格闘となりました。豪腕の明兵に対し、力不足の久高は組み伏せられ危険な状態となりましたが、家来の田実三之丞という者が駆けつけ鎗で明兵の顔を突き、ひるんだその隙に久高が明兵の首を掻き斬ったといいます(『本藩人物誌』)。危うく久高は討ち死にするところでした。

島津軍の琉球侵攻にはこうした歴戦の猛者が揃っていたのです。琉球には4000人ほどの軍事組織が存在したとはいえ、戦慣れしておらず装備も劣り、島津兵は3000人でも充分な数でした。

島津軍と琉球軍の戦いを、あえてわかりやすく現代に例えていえば、グリーンベレー・デルタフォースなど米軍の特殊部隊3000人と沖縄の警察官4000人が戦うようなものだったといえます。この場合、「沖縄県警は米軍の特殊部隊たった3000人に敗れた」とは決して言うことはできないように、「島津軍たった3000」とは言えないように思います。

参考文献:山本博文『島津義弘の賭け』、村井章介「島津史料からみた泗川の戦い」(『歴史学研究』736号)

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2009年10月24日 (土)

貝塚時代は遅れた社会?

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沖縄県は大小160の島々から成り立つ地域です。こうした自然環境のもと、沖縄の歴史は育まれてきました。人々は海とともに生き、移動手段として船を利用し、島嶼間をさかんに往来していました。

今から6600~900年前、琉球王国という国家が誕生する以前、沖縄の人々は長く漁労採集の生活を営んでいました。「貝塚時代」といいます。人々はサンゴ礁のおだやかな内海(ラグーン。イノーともいう)で貝や魚を獲り、砂丘地帯や湧き水の近くに住まいをかまえ生活していました。

この時代の特徴は、日本本土でいう平安時代頃までこうした生活スタイルが続いていたことです。日本で「源氏物語」の世界が展開されていた時期に、南西諸島ではまだ農耕をせず、魚や貝を獲りながら暮らしていたのです。こうした事実によって沖縄は野蛮で遅れていた、と考えることも可能かもしれません。しかし、こうした見方は必ずしも適当ではないと思います。

農耕は非常に手間がかかる作業です。1年を通じ田畑と水を管理し、人々が組織的に働かなくてはいけません。貝塚時代の人々は本土の弥生人と交流がありましたから、米や麦などの穀物栽培を知らないはずはありません。ではなぜ農耕が広がらなかったのでしょうか。それは、あえて面倒な農耕をしなくても、従来の生活で充分食べていけたからなのではないでしょうか。つまり沖縄ではわざわざつらい農作業をしなくても、1年中暮らしていける豊かな社会だったから、ともいえるのです。

貝塚時代の人々の主な生活の舞台はサンゴ礁の内海でしたが、それだけにとどまりませんでした。有人島で日本最南端の波照間島。島の北海岸砂丘に位置する大泊浜貝塚からは、驚くべきことに島外産のイノシシやマングローブ林でしか採れないシレナシジミ(大型のシジミ)が多数出土しています。ここから海の向こうの西表島も生活圏だったことがわかります。波照間島は「絶海の孤島」だったのではなく、人々は日常的に対岸の島々を行き来していたのです。大泊浜貝塚から海をながめると、水平線の向こうに西表島の島影をはっきりと見ることができます【画像】。

なお1477年の朝鮮漂着民の見聞録によると、波照間島はキビ・粟・麦を栽培していましたが、水田がないので米は対岸の西表島から入手し、材木も西表島から取ってきたとのことです。

人々の生活は必ずしも島の中だけで完結していたのではなく、海を越えた広がりをもっていたわけです。

【画像】波照間島の大泊浜貝塚からみえる西表島。

参考文献:安里進・春成秀爾編『沖縄県大泊浜貝塚』(科研報告書)

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2009年10月17日 (土)

新「琉神マブヤー」放送開始!

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沖縄のローカルヒーロー、「琉神マブヤー」の新作、「琉神マブヤー外伝・SO!ウチナー」が琉球放送で今日から開始されました!

琉神マブヤー公式サイト

今回は放送時間30分に拡大、沖縄の歴史・文化を前回よりも多くもりこんでいます。僕も「歴史アドバイザー」として少し関わっています。沖縄にお住まいの皆様、ぜひご覧ください。毎週土曜日10時30分に放送です!

※日経トレンディネットにも紹介されています。詳しくは【こちら

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2009年10月15日 (木)

琉球・山川港交流400周年イベント

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わたくし、とらひこが参加する歴史イベントのお知らせです。

琉球・山川港交流400周年事業イベント
 
11月28日(土)

●14:00~16:00  シンポジウム   

会場/山川文化ホール
◎基調講演 /原口泉(鹿児島大学教授)

◎パネルディスカッション /
コーディネーター 
原口泉(鹿児島大学教授) 
パネリスト
安里カツ子(沖縄県副知事)、岡積常治(鹿児島県副知事) 、上里隆史(早稲田大学客員研究員) 、花井恒三氏(奄美のトラさん) 、松下尚明氏(地域史研究家)、永田和人氏(縄文の森をつくろう会)

●17:00~20:00  くるま座文化交流   

会場/山川文化ホール
◎泡盛、芋焼酎、郷土料理を味わいながらの懇親会(会費 2,000円)
◎ツマベニ少年太鼓、琉球舞踊、奄美島唄 などの芸能交流

11月29日(日)

●8:30~9:30  除幕式 (琉球人鎮魂墓碑・琉球人望郷の碑建立事業) 
◎多くの琉球人墓があった福元墓地に「鎮魂墓碑」、愛宕山に「望郷の碑」を建立

●10:00~12:00  芸能交流   

会場/山川文化ホール
◎琉球舞踊、奄美島唄、琉球笠踊り、ツマベニ少年太鼓などの熱演(予定)

●13:00~15:00  山川港のまち歩き   

集合/山川文化ホール玄関前
◎「いっど、いっが、山川港ボランティアガイドの会」が案内します。参加無料、当日現地で受付
☆参加者募集!!(申込締め切り11月10日)   

【シンポジウム】
入場料:無料
定員:500名 
※両県副知事による新交流宣言

【くるま座文化交流】
入場料: 2,000円
定員:200名
※泡盛、芋焼酎、郷土料理で懇親

【芸能交流】
入場料:無料
定員:500名
※重要無形文化財の琉球舞踊保存会が特別出演

・・・事前に申し込まれた方に整理券を発行し、優先的に入場していただきます。 

◆琉球・山川港交流400周年事業実行委員会    
【事務局】電話 0993-35-2900  FAX 0993-35-2100

くわしくは【こちら】まで!

今年は島津軍の琉球侵攻から400周年。沖縄と鹿児島の間にはさまざまな歴史がありました。今、両者は「交流元年」として新たな歴史を築く時ではないかと思います。今回、僕は若輩ながら沖縄代表パネリストの大役を仰せつかりました。僕の研究分野である「海域史」という視点から両者の広範な交流をお話しできればと考えています。みなさま、ぜひご参加ください。

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2009年10月 8日 (木)

島津侵攻秘話(4)

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おかゆを流したのはなぜ
1609年の島津軍侵攻は琉球がこれまで経験したことない、大きな「いくさ」でした。琉球で平和に暮らしていた人々は、この外からの脅威に対してどのように対応したのでしょうか。

1609年3月に薩摩の山川港を出発した3000人の島津軍は、那覇をめざして奄美諸島を南下していきます。琉球側は手をこまねいていたのではなく、徳之島に軍勢を集めて防ごうとしました。ここでは刀や弓矢を持った兵士だけではなく、村の人たちもそれぞれの家からある「武器」を持って出てきました。

その「武器」とは、グツグツと煮た粟(あわ)のおかゆです。人々はこのおかゆを道や坂に流すという奇妙な行動に出ます。徳之島の人にとって、この行為はれっきとした戦闘行為でした。実は、奄美では粟のおかゆは悪霊を払う力を持つと信じられており、たとえば奄美大島の名瀬では神女(ノロ)が村の背後にある拝み山で粟のおかゆを流し、悪霊から村を守る儀式を行っていたそうです。つまり、彼らは侵入してくる島津軍を悪霊と同じように考え、普段の生活で行われてきた方法で、外敵を撃退しようとしたのです。

また神女たちの神歌を集めた歌謡集(『おもろさうし』)には、侵入してきた「大和前坊主(やまと・まえぼじゃ。チョンマゲの武士を馬鹿にした言葉)」をニライ・カナイの底へ沈めよ、と歌ったものがあります。沖縄には海のかなたにニライ・カナイという別世界が存在すると信じられていて、そこからは幸せだけでなく災いももたらされると考えられていました。

沖縄の年中行事には「アブシバレー(畦払い)」という、農耕の害虫などを小船に乗せて海へ流すという儀式がありますが、これはニライ・カナイから来た災い(害虫)を元の世界へ戻そうとするものです。つまり、神女たちは侵入してきた日本の武士たちを害虫と同じように扱い、海の向こうへ追い返そうとしたのです。

当時の琉球では、神女の霊力は実際の戦闘力と同じ力があるとかたく信じられていました。ある石碑には「沖縄は聞得大君(ノロの頂点にいる女性)の霊力で守られている」と記されています。実際には島津軍に何のダメージも与えられませんでしたが、琉球の人々は日常生活の儀式を応用して、外敵に対抗しようとしたわけです。これも生活の知恵といえばそうなのかもしれませんね。

参考文献:波照間永吉編『琉球の歴史と文化―『おもろさうし』の世界―』

※【画像】今帰仁崎山の神アシャギ。ノロが神々を招いて祭祀を行った。

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2009年10月 1日 (木)

「奄美と沖縄をつなぐ」 イベント

わたくし、とらひこが参加するイベントのお知らせです。

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「奄美と沖縄をつなぐ」

日時:2009年11月14日(日)16:00
場所:新宿区牛込箪笥区民ホール

【1】パネル・ディスカッション 16:00-17:30

琉球弧の島々を歴史や想いでつなぐ
・・・奄美と沖縄を隔てているものを、改めてつなぐためにどのような糸口があるのか、その可能性を奄美と沖縄の双方の視点から掘り起こします。

〔パネリスト〕
上里隆史 『目からウロコの琉球・沖縄史』著者
圓山和昭 「奄美の家日記」主宰
喜山荘一 『奄美自立論』著者、ブログ「与論島クオリア
藤木勇人 うちな~噺家

【2】シマウタ・コンサート 17:45-19:00

琉球弧の島々をシマウタでつなぐ
・・・ウタは島伝いに海を渡り、シマの生活に根付きます。琉球弧のなかので同名異曲や異名同曲、ウタの変化を見、つながりを 発見します。おなじみのシマウタの思いがけない表情が浮かび上がります。

噺(はなし)と進行  藤木勇人

〔出演者〕
徳原大和(奄美大島)
内山五織、HiRo( 徳之島)
持田明美、マタハリダンサー ズほか(沖永良部島)
中山青海(与論島)
熊倉直樹&知念京美(沖縄島)
八重山芸能集団「結~ゆい~」、新城亘(八重山)

〔演目(予定)〕
1.与論小唄系
・十九の春(沖縄)、ジュリグワ小唄(沖縄)、与論小唄(与論)、ラッパ節(沖縄)、スーちゃん節(兵隊ソング)
2.行きゅんにゃかな系
・行きゅんにゃかな(奄美)、取ったん金ぐわ(徳之島)、武雄と浪子(永良部)、トゥータンカニー(沖縄)、石川小唄(沖縄)
3.稲しり節系
・奄美の稲しり節、徳之島の稲しり節、沖永良部の稲しり節、八重山のシシャーマ節
4.畦越え(ハイヤセンスル)系
・竹富島のじっちゅ、宮古・川満の笠踊り、沖永良部の奴踊り、徳之島の畦越え、沖縄の唐船どーい(カチャーシー)
5.六調
・奄美六調、徳之島六調、八重山六調


○前売券:¥3,500
○当日券:¥4,000

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