2009年7月 1日 (水)

カタツムリと虫の食べ方

みなさんはエスカルゴをご存じでしょうか。カタツムリの入った殻にガーリックバターを練りこみ、オーブンで焼いたもの。エスカルゴはフランス料理の高級食材として知られ、ワインの産地でもあるブルゴーニュ地方の代表的な料理です。食感は肉質のやわらかい貝類といったところでしょうか。

カタツムリを食べるなんて気持ちが悪いと考える人もいるかもしれませんが、実はこのカタツムリ、かつての沖縄では一般的な食材で、実に1950年代まで食べられていました。食料難だった時代には貴重なたんぱく源だったのです。

〔追記〕1970年代まで食べられていたとのコメントをいただきました。

石垣久雄「カタツムリの食べ方」(『南島考古』22号)で、聞き取りをもとにカタツムリの調理方法が紹介されています。それによると、カタツムリは主に汁にして食べられていたとのこと。

(1)畑などにいるカタツムリを採取する。雨の日だとたくさんゲットしやすい。

(2)カタツムリをしばらく置いて、体内の内容物(要するに糞)を排出させる。

(3)カタツムリを入念に水洗いしてヌメリをとってからナベなどで煮る。鍋からカタツムリが逃げないよう、ナベの縁には塩をこすり付けるとよい。

(4)沸騰したら野草などを入れて出来上がり。さあ、めしあがれ!

※よいこのみなさんはマネしないでください。

八重山の近世(江戸時代)集落からは、廃棄された大量のカタツムリの殻が見つかるそうです。1479年の朝鮮漂着民の証言(『朝鮮王朝実録』)によると、琉球の各島では日常的にカタツムリを煮て食べていたといいます。

また約3400年前の熱田原貝塚(南城市)からも、陸上産のマイマイが海の貝とほぼ同じ量で出土しています。カタツムリは沖縄古来の「伝統」食材だったわけです。カタツムリ食は、豊かさを獲得した現代においてその歴史的役割を終えましたが、もしかしたら洗練されて琉球版エスカルゴとして発展していた可能性もあったかもしれません。

ところで、朝鮮漂着民の証言で気になる部分がありました。

「沖縄島ではイナゴ・キリギリスのような虫がいて、大型である。人は好んでこれを食し、市場で売られている」

イナゴを食べる習慣は本土に残されていて、たとえば長野では今でもスーパーにイナゴの甘露煮が並びます。証言ではその大きさを特徴として挙げていることから、オキナワキリギリスの可能性があります。この虫は琉球列島の固有種で大型。現在、絶滅も懸念される希少昆虫です。

オキナワキリギリスの個体数が減少した理由として、沖縄で食用だったことの影響もあったかどうかは定かではありませんが、いずれにせよ古琉球の人々は昆虫が大好物だったことがわかります。

参考文献:石垣久雄「カタツムリの食べ方」(『南島考古』22号)、高宮廣衞『沖縄の先史遺跡と文化』

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2009年6月24日 (水)

三山は存在しなかったのか

琉球王国が成立する前、沖縄島には、中国から「山北(北山)」「中山」「山南(南山)」と呼ばれた3つの大きな勢力に分かれ、覇権を争っていた時代があります。いわゆる「三山時代」です。名称については「山」が「島」を意味することから、「沖縄島のどこの部分」という程度の意味になります。例えば「山北」は「(沖縄)島の北」ということです。ところで、この三山が実は存在しなかった、名ばかりで実体などなかったという意見があります(ナ、ナンダッテー!)。これは本当なのでしょうか。

Photo

【三山の図(クリックで拡大)】

結論を先に述べてしまいますと、この説にはかなり無理があります。

琉球に渡来した明使の路謙は、琉球国内で対立する三山の様子を目の当たりにして明朝廷に報告し、1383年に皇帝から三山の各王へ停戦が勧告されています(『明太祖実録』)。「三山」という称号はもともと中国側が付けたわけですが、沖縄内部の事情をある程度把握したうえでの区分だったのです。

三山時代の当時、沖縄各地は戦乱状態で軍事的な対立があったことは、外敵の侵入に備えるための防御機能をもったグスク、またそこから出土する多数の武器類の存在からも明らかです。

また中山王の尚巴志が首里城周辺を整備した際に建立した「安国山樹花木之碑記」(1427年)には

琉球、国分かれて三となり、中山、其の中に都す

と刻まれていて、三山時代当時の琉球においても国内が三分されていると認識されていたことがわかります。これは後世の歴史観が全く入る余地のない、しかも他者ではない当事者の認識であることから、三山が存在したことを裏付ける決定的な証拠です。

ちなみに碑文の起草者は「安陽澹菴(あんよう・たんあん)」。僧侶である可能性が指摘されています。文は「安陽澹菴猊(げい)、寅(つつし)み記す」とあり、「猊(猊下、猊座)」は高僧に対する敬称なので、僧(おそらく禅僧)で確定でしょう。この当時、琉球はすでに「十刹(じっさつ)」という官寺が整備され仏教がさかんだったので、別におかしなことではありません。

というわけで、14世紀後半から15世紀初頭の沖縄島に、政治的に対立する3つの勢力が実体として存在していた事実はまず間違いありません。

このように明々白々な証拠が存在する以上、議論は終了なわけです。自分の欲しい結論をあらかじめ先に設定し、さまざまな史料をその鋳型に強引にはめていく手法をとれば、以上あげた史料を「意図的に作り上げられた陰謀だ」と主張することも、あるいはできるかもしれません。しかし、史料と虚心に向かい合い論理的に考えれば、三山の存在はゆるがない事実と考えていいでしょう。

参考文献:『明実録』、「安国山樹花木之碑記」、高橋康夫「古琉球の環境文化―禅宗寺院とその境致」(鈴木博之ほか編『シリーズ都市・建築・歴史4 中世の文化と場』)、知名定寛「尚巴志王咨文と古琉球仏教」(『沖縄文化』93号)

※琉球王「朝鮮系倭寇」出自説については【こちら】を参照。

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2009年6月17日 (水)

古琉球の元号

【古琉球で使用されていた元号】

明朝の朝貢国だった琉球では、一貫して中国元号を使用していました。元号を受け入れることは、空間的に中国の国際体制に参加するだけでなく、時間的にもその傘下に入ることを意味していたのです。ちなみに琉球の「○○王統」や「○○王~年」という表現は、古琉球当時には一切ありません。

洪武 こうぶ (1368~1398)

建文 けんぶん (1399~1402)※

永楽 えいらく(1403~1424)

洪煕 こうき(1425)

宣徳 せんとく(1426~1435)

正統 せいとう(1436~1449)

景泰 けいたい(1450~1456)

天順 てんじゅん(1457~1464)

成化 せいか(1465~1487)

弘治 こうじ(1488~1505)

正徳 せいとく(1506~1521)

嘉靖 かせい(1522~1566)

隆慶 りゅうけい(1567~1572)

万暦 ばんれき(1573~1619)

※建文帝は永楽帝のクーデターにより皇位を奪われたので、その存在を抹消されていた。琉球側の記録では建文年号の使用は見られないが、当時の状況から言えば建文帝存命当時には使用されていた可能性が高い。

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2009年6月10日 (水)

目からウロコ講座7期!

Photo

とらひこの桜坂市民大学講座7期、ついにやってきました!今回は夏休みスペシャルということで、教室外で特別講座の開催です!

目からウロコの沖縄歴史
~学校で出来ない歴史の秘話~

講師名:上里隆史(『目からウロコの琉球・沖縄史』『誰も見たことのない琉球』著者)
曜日・時間:毎週火曜日 21:00~22:30 7/14(火) スタート 全5回
受講料:10000円
材料費:なし
定員:25名
対象年齢:16歳以上
持参物:筆記用具

かんたん沖縄の歴史入門
~琉球・沖縄の歴史がすぐわかる!~

講師名:上里隆史
曜日・時間:毎週日曜日 11:45~13:15 7/12(日) スタート 全5回
受講料:10000円
材料費:なし
定員:25名
対象年齢:16歳以上

目からウロコの首里城探検
~見所いっぱい、謎いっぱいの首里城ツアー!~

講師名:上里隆史、賀数仁然(RBC久茂地放送屋構成作家)、仲嶺真輝(沖縄県限定通訳案内士)
曜日・時間:毎週土曜日 13:30~15:00 7/11(土) スタート 計5回開催(7/11、7/18、7/25、8/1、8/8)のうち、1回を選択。
受講料:3500円
材料費:800円(首里城入場料)
定員:10名
対象年齢:16歳以上
注意点:現地集合・解散。首里城レストセンター(首里杜館)入口の案内所付近に集合。少々の雨天決行。中止の場合は事前にご連絡します。
持参物:動きやすい服装・靴。可能であれば帽子や傘なども。

お申し込みは、

お電話【098-860-9555】
ファックス【098-861-2434】
メールでのお申し込みも可能です。

詳しくは【こちら】まで!

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2009年6月 3日 (水)

琉球歴史イラスト(9)

明朝常服、キリンの補子

Photo_2

(クリックで画像が拡大します)

補子(ほし)とは明朝の身分を識別するために常服に付けられたゼッケン。身分ごとに違う動物の模様を用いた。琉球国王は紅色の服に麒麟(きりん)が描かれた補子と決まっていた。これは明朝の諸侯と同ランクである。図の文様の服が琉球にも送られた。

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2009年5月27日 (水)

本当だった?泉の伝説

生活になくてはならないのが水。今でこそ県内にはいくつもダムが作られ、水道の蛇口をひねればいつでも水が出てきます。では水道が整備される以前はどうしていたのでしょうか。人々の暮らしを支えていたのは、各地にあった「カー(川)」や「ヒージャー(樋川)」と呼ばれる天然の湧き水でした。

南西諸島で多く見られる琉球石灰岩は太古のサンゴが堆積してできた岩です。石灰岩は細かい穴が無数にあいているため、雨が降ると地下にしみ込んでしまいます。地下水はさらに水を通さない泥の層で止まり、やがて石灰岩と泥の層のすき間から地上に湧き出てくるのです。

こうした環境を活かし、沖縄の人々は湧き水を中心に生活を営んできました。村々には共同水場であるムラ(村)ガー、産湯で使うウブ(産)ガーなどがあり、泉は信仰の対象にもなっていました。

王国時代の那覇は「浮島」と呼ばれた島でしたが、ここでは井戸を掘っても塩分をふくんだ水しか出ず、対岸の落平(ウティンダ)という場所から湧き出る水を飲料水にしていました。くんだ水は船で那覇の浮島まで運ばれていました。那覇港に海賊などの敵が侵入した際、王府は落平に兵士を派遣して防御することを定めていましたが、水源が那覇の生命線だったことを示すエピソードです。

また首里城・瑞泉門の横にある龍樋(りゅうひ)は国王だけではなく、中国から来た冊封使の飲み水としても利用されていました。龍樋の水は毎日、那覇の冊封使のもとまで届けられたといいます。

ところで沖縄各地の湧き水には動物にまつわる伝承があります。例えば糸満市の嘉手志川(カデシガー)。昔、ひでりが続き村人が苦しんでいた時、ずぶぬれになった一匹の犬が山から現われたので、この犬を追ったところコンコンと湧き出る泉を見つけた、という伝承です。動物が泉を発見したという説話は沖縄各地に見られますが(牛や馬など)、犬が発見したという話がもっとも多いそうです。

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【嘉手志川】

この話は伝承にすぎないのでしょうか。実は、天女伝説で有名な森の川(宜野湾市)付近の遺跡(真志喜富盛原第二遺跡)から、グスク時代のものと考えられる7匹以上の犬の遺体が発見されました。犬は水路の近くに葬られていて、琉球犬とみられます。湧き水に対して、犬が何らかの特別な宗教的意味を持っていたことがうかがえます。

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【森の川】

この泉が犬の発見したものだったかどうかは定かではありませんが、現代に伝わる泉と犬の伝説がグスク時代にまでさかのぼる可能性がある、ということだけは言えそうですね。

参考文献:東恩納寛惇『南島風土記』、宜野湾市教育委員会文化課『宜野湾市文化財調査報告書第27集:真志喜富盛原第二遺跡・真志喜蔵当原遺跡』

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2009年5月20日 (水)

儀間真常と袋中上人

儀間真常は言わずと知れた琉球史上の偉人。サツマイモやサトウキビ栽培を普及させ、やがてイモは江戸時代の日本にも渡り、多くの人々を飢えから救うきっかけをつくった人物です。彼が生きていた時代、ヤマトから一人の僧侶が琉球を訪れます。それが浄土僧の袋中良定(たいちゅう・りょうてい)です。

袋中は那覇の久米村近くに桂林寺というお寺を建て、そこに滞在します。彼は琉球で布教活動を行い、尚寧王をはじめとした多くの人々が帰依しました。また袋中が伝えた浄土宗は踊り念仏を定着させ、やがてエイサーへと発展するきっかけを作ったとされているのは有名な話ですね。

儀間真常もまた袋中の教えに帰依し、熱心な信者となったと言われています。それを示す証拠が、実は戦前まで那覇垣花の儀間村に残されていました。この村は真常の出身地です。

1936年(昭和11)、袋中開山の檀王法林寺の住職、信ヶ原良文氏が垣花を訪問した際、住吉町の又吉さん宅(麻氏の家系でしょう)に袋中直筆の書を見つけます。状態は悪くすすけてはいましたが、中央に「南無阿弥陀仏」と書かれており、右側には「授了徳公」、左側には「弁蓮社良定(花押)」と記されていました【画像。クリックで拡大】。「徳公」は儀間真常の号です。「授了」は「授けた」という意味。真常が袋中の帰依者で、直筆の書をたまわったことがわかります。ここには「授了徳公大禅門神位」と刻まれた真常の位牌もあったそうです。

なお『麻姓家譜』には真常を「授了と号す」と書いてありますが、この袋中書を見て、「授了」のほうを名前だと勘違いして載せてしまったのではないでしょうか。それは位牌の名前がこの書の文をそのまま丸写ししていることからもうかがえます。

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また袋中の遺品として数珠もありましたが、108個あるはずの数珠の玉はほとんど失われていました。病気が流行った時、身を守るまじないとして1個ずつ人々に分け与えたことからこのような状態になったとのこと。袋中の遺品がある種のパワーを持つと考えられ、沖縄の人々の信仰を集めていたことがわかります。

これらの品々は残念ながら先の沖縄戦で失われてしまいましたが、戦前の貴重な調査の記録によって、その存在を知ることができるのは幸いです。袋中の弟子となった真常は、もしかしたら「極楽浄土」の実現のため、多くの人々を救う手段としてサツマイモの普及に励んだのかもしれません。

参考文献:信ヶ原良文『袋中上人―生い立ちとその行跡―』、『麻姓家譜』

※【画像】は袋中筆の書の推定図。

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2009年5月15日 (金)

早稲田で目からウロコ!講座

わたくし「とらひこ」が再び本土にて「目からウロコ」な講座を行います。今度は何と早稲田大学です!

2009年度 早稲田大学 オープン教育科目 総合講座「沖縄学」

古琉球と海域アジア」 
講師:上里隆史(琉球・沖縄研究所客員研究員)
日時:2009年5月22日(金)18:15~19:45
場所:早稲田大学 西早稲田(本部)キャンパス8号館/地下 B102大教室(南門入ってすぐ)

※申し込みはファックス(03-3202-2542)で!詳しくは【こちら】から

オープン教育科目  総合講座「沖縄学」

オムニバス形式の本講義は、早稲田大学内外の沖縄に携わる研究者を多数招いて行われました。その専門は政治学、経済学、歴史学、文学、言語学、文化人類学、宗教学、カルチュラル・スタディーズなど非常に多岐にわたります。また、2006年度には琉球新報、沖縄タイムス両東京支社長を、2007年度は詩人と映画監督を講師として招き、研究者以外の視点も学ぶことができる良い機会となっています。またオープン教育科目として設置され早稲田大学全学部の学生が受講できるため、個性あふれる学生が多く集まっています。登録数は前後期でのべ400人を越え、さらには院生や社会人も聴講に訪れました。多様な関心を持つ人々が沖縄という共通項で刺激を受けることができる授業であり、首都圏に「沖縄学」と題された講義が単位認定科目として設置された意義は大きいと思われます。(ホームページより)

今回は僕の専門である古琉球と、それをとりまくアジアの海域世界のお話です。これまでとはまったくちがった琉球史像を提示します。最新の古琉球史研究をダイレクトにあなたのもとへ!「琉球」とは何なのか?その根本にまで迫りたいと思います。どうぞご期待ください。

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2009年5月10日 (日)

侵攻400周年シンポに参加して

5月9日、沖縄県立博物館で「薩摩の琉球侵攻400年を考える」シンポジウムが開催されたので、参加してきました。参加人数は数百人を超え、臨時に第三会場まで用意するという盛況ぶり。沖縄での関心の高さがうかがえます。

報告者は琉球史研究を牽引する先生方、また本土や奄美からの研究者も参加したそうそうたるメンバーでした。さまざまな切り口から薩摩侵攻についての報告が行なわれました。とくに面白かったのは女性史や民間伝承、精神史の面から薩摩侵攻事件にせまった報告など。これまで考えたことのない新しい視点からの話は、とても興味深いものでした。

さて僕が今回この記事を書くのは、シンポジウムで琉球の軍事的対応をめぐる議論について、報告者の方々の意見に少々疑問を感じたからです。基調報告をされた上原兼善先生は、侵攻事件の経過を説明するなかで、島津軍に対する琉球の軍備は劣弱でしかも火器兵器が装備されていたかったことを、1606年に琉球を訪れた夏子陽『使琉球録』を根拠に主張されていました。またパネルディスカッションにおいても、琉球は軍事組織と呼べるほどの軍団が編成できない状態で、島津軍に対応したとの意見がありました。

琉球の軍事をめぐる問題を調べている僕からしますと、この見方には賛同しかねる部分があります。

まず1609年直前における琉球の武装と火器について。上原氏は夏子陽の「琉球の武器は刀ぐらいで、矛も弓もさほど役立つものではない」とのコメントをあげ、火器について言及されていないから火器は常備されていなかったとしています。しかし1605年の袋中『琉球往来』のなかには、琉球の「那呉ノ館(名護親方か)」の保有する武器照会で、「甲冑300領、弓500張」とともに「銃(テヒヤ)大小200挺」と具体的な武器・武具類が詳細に記されています。『琉球往来』中の文書は実際に発された文書ではありませんが、当時の琉球の状況、風俗・文化などをかなり正確に反映していることから、王府の軍団編成のなかで多数の火器が装備されていたことはほぼ間違いありません(この話は拙稿「琉球の火器について」のなかでも言及しています)。

また上原氏は那覇港口での戦いで「石火矢(大砲)」が使用されたという話を挙げられていましたが、これこそが琉球が組織的な軍事行動で火器兵器を実戦使用していたことに他ならない事実なのではないでしょうか。この事実は、なぜか琉球が火器で武装されていた証拠としては採用されていませんでした。

興味深いのは、『琉球往来』中の「銃」に「テヒヤ」とルビがふってあることです。このテヒヤは「手火矢」だと考えられます。この「手火矢」という用語、実は九州地方での火縄銃の地域的な呼称なのです(宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究』)。史料中の「銃」が中国式火器なのか火縄銃なのか不明ですが、少なくとも琉球での銃の呼称が、九州地方での火縄銃の呼称と共通することを確認できます。

また、史料中の銃と弓矢の保有比率からも、琉球の武装の様子がうかがえます。弓500張に対し銃が200挺と、その比率が5:2と弓矢のほうが多いのです。これは琉球の軍隊が少なからず火器で武装しながらも、その主力兵器がいまだに弓矢だったことを表わしています。ちなみに1609年の島津侵攻軍の武装は、弓117張に対し鉄砲734挺と圧倒的に火器が多いことがわかります。

つぎに琉球の軍事組織が、16世紀に奄美・先島を征服したような規模で維持されておらず(つまり軍隊としての能力が100年間で縮小したということでしょうか)、港を守る程度の組織で島津侵攻軍を迎え撃った、というディスカッションでの結論ですが、史料には琉球での軍事組織の改変・縮小を示すような事実が全くないうえに、1571年には尚元王が奄美反乱の鎮圧のため軍隊を派遣しており(『中山世譜』)、外征能力を依然として備えた軍事組織を持っていたと考えたほうが妥当です。

また1606年の夏子陽『使琉球録』には、倭寇来襲の情報に接した王府が毛継祖(豊見城親方)率いる1000人の兵を今帰仁へ派遣したとあり、有事の際には首里・那覇港以外の場所にただちに軍事組織が急行できる体制であったことが明らかです。そもそも夏子陽の「琉球の武装が劣弱である」とのコメントは、あくまでも彼個人がみた印象にすぎない点を考慮しなくてはいけないように思います。さまざまな史料を先入観なしで総合してみれば、琉球は国力相応の軍事力を持っていたとしか評価できず、港の警備隊程度しかなかったとの評価は正しくないと僕は考えます。

では、琉球が軍事組織を持ちながらなぜ島津軍に負けたのかという問題ですが、それは琉球側の軍事組織の運用方法や、島津軍との戦力差(兵数だけに限定されない諸要素ふくむ)という、軍事組織の有無そのものとは別次元の問題であって、「あっけなく負けたから」「激しく戦闘した様子がみられないから」というのは軍事組織を備えていなかった根拠にはなりません。

実際に琉球は那覇に王府直轄軍の兵力ほぼ全てを投入しており、港を守備すれば島津軍の侵攻を防げると考えていたふしがあります。島津側の史料『琉球入ノ記』で那覇港に突入した七島衆の島津軍船が謝名親方3000の軍に「大石火矢(大砲)」で撃退された記事だけでなく、『歴代宝案』には三司官の謝名親方・豊見城親方率いる3000の軍勢が那覇を防御している記述があり、『喜安日記』にも「若き公卿・殿上人は(略)一戦せんとぞ申しける。去程に、夜も漸く明行侭、那覇へ下りぬ」とあります。これまでこの一節は見逃されてきましたが、『歴代宝案』の記述と合致することから、那覇に防衛軍が派遣されたのは間違いないでしょう。

〔追記〕島津軍侵攻を伝える琉球側の史料『喜安日記』は、これまで信頼性の高い史料として、多くの研究者に引用されてきました。であるならば、島津軍と一戦すべく那覇に出動した王府高官たちの記事を軽視するわけにはいかないはずです。つまり、『歴代宝案』の那覇防衛戦を傍証する、ゆるぎない根拠となるのです。

なぜ港に兵力を集中させたかというと、80隻もの島津軍船が安全に停泊・上陸できる場所は、サンゴ礁で囲まれた沖縄島には那覇・運天など限られた場所しかなかったからです。実際に島津軍の船団は港として使用できる運天・那覇をめざし、那覇に防御網があることを知った島津軍は、途中、大湾渡口から上陸しています。ここも比謝川の河口に位置する絶好の船の係留場所でした。

那覇港と別の地点から上陸した島津軍は、琉球の防備の裏をついて王都・首里へ入り勝利を決したため、実際に両軍の主力が正面から激突することはありませんでしたが、戦闘した様子がなかった事実によって琉球の軍事組織が軽微だった、もしくは存在しなかったとの結論にはもっていけません。【軍事組織が存在したこと】と【戦闘を行なったかどうか、勝ったか負けたか】はひとまずは切り離して考えるべきではないでしょうか。

〔追記〕1609年の琉球・島津氏戦争の展開をあえてわかりやすく例えて言うとしたら、第二次大戦時のナチス・ドイツのフランス侵攻をあげることができるでしょうか。ドイツ国境沿いに140キロにわたって構築された一大要塞網のマジノ線を頼みに、総兵力・戦車数ともにドイツと対等以上だったフランスは、部隊を配置していないアルデンヌの森を突破されて背後をつかれ、一気に崩壊します。フランスは第一次大戦時の装備とほぼ変わらない状態であり、ドイツとの装備・兵器運用面の差は歴然だったのですが、フランスの一番の敗因を「フランスの武器が劣弱だったから」「士気が旺盛でなかったから」と主張したら、多くの専門家は首をかしげるのではないでしょうか。またこの戦いで両軍主力が全面的に衝突しなかった(=大規模な戦闘がなかった)ことを根拠に「フランスには軍事組織がほとんどなかった」という結論を導き出したとしたら?琉球史ではなぜかこれがまかり通ってしまうのが不思議です。

今回のシンポジウムは、さまざまな論点と400周年の歴史的意義という大きな話がメインだったため仕方ない面もありますが、歴史学研究においてこれまで軍事史という視点がおざなりになっていたという問題は、琉球史研究にも当てはまるように思いました。

とくに侵攻事件は琉球が直面した対外戦争です。事件の経過をきちんと押さえていくのであれば、まず軍事的な視点から史料を分析することを第一に行なう必要があります。それは、たとえば石高制の問題について研究する際に、まず経済史の視点をふまえて分析するのと同じことではないでしょうか。このような考えが琉球史において認知されることを願ってやみません。

参考文献:上里隆史『琉球の火器について』(『沖縄文化』91号)、「島津軍侵攻と琉球の対応」(『新沖縄県史・近世編』)、宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究』

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〔追記〕琉球側の戦術・布陣と那覇港口の戦いを知ることのできる史料に『歴代宝案』(1-18-3文書)があります。

四月初一日、倭寇、中山の那覇港に突入す。卑職、師官鄭迵・毛継祖に厳令して技兵三千余を統督せしむ。兵を披(つ)け鋭を執り、雄として那覇江口に拠りて力敵す。

彼の時、球兵は陸に居りて勢強し、蠢倭は水に拠りて勢弱し。百出して拒敵すれば、倭は其れ左なり。且つ又、倭船は浅小にして武を用い難し。箭もて射れば逃ぐるに難く、鋭もて発すれば避くる莫(な)し。急処に愴忙し、船は各自連携(つらな)り角(あらそ)いて礁に衝(あた)る。沈斃し及び殺さるるもの、勝(あ)げて紀(しる)す可からず。

詎(なん)ぞ、彼の倭奴の蔵兵継ぎ至り、陸に沿い東北従(よ)りして入るも兵の備禦する無し。虞喇時(うらしー。浦添)等の地方、悉(ことごと)く焚惨を被(こうむ)る。

【現代語訳】

4月1日、倭寇(島津軍のこと)が琉球の那覇港に突入した。わたくし(明朝皇帝に対しての尚寧王の自称)は司令官として謝名親方・豊見城親方に命令して、精鋭の兵3000あまりを統率させた。兵を率いて「鋭(優秀な武器)」をとり、雄として那覇港口に布陣して、つとめて敵に備えた。

その時、琉球兵は陸にあって勢い強く、島津兵は海にあって勢いが弱かった。さかんに出撃して敵を防げば、島津兵は劣勢におちいった。さらに島津軍船は狭小で戦うに困難である。(我らが)弓矢を射かければ逃げることができず、「鋭」を発すれば避けることができない。あわてふためいて狭い場所(港の出口か)に殺到し、各船はぶつかってサンゴ礁に衝突した。溺死したり殺されたりしたものは数えきれなかった。

しかし何ということだろうか、かの島津軍には伏兵(本当はこちらが主力部隊)があり、陸路に沿って東北(ここでは沖縄島中部)から侵入したのだが、そこには我らの兵の防御がない。浦添などの地方はことごとく戦火の被害を受けてしまった。

『歴代宝案』の文書は宗主国の明朝向けであることから脚色がありますが、事件の経過・日時そのものは正確です。おそらく事実をもとに、それらに肉付けしていったと考えられます。いずれにせよ、この史料からは、琉球王府は島津軍船の上陸地点となる那覇港口を決戦場として考え3000の主力部隊を布陣させ、港口の防御は一定の効果があったものの、沖縄島中部に兵を配置しておらず、陸路から侵入した島津軍の動きは琉球の想定外であったことがわかります。

そして注目されるのが「鋭もて発すれば」という部分です。「鋭」とは「するどい武器、刃物」というほどの意味ですが、ここでの攻撃は弓矢とともに「発する」という、遠距離兵器的な性格を持っていたことがうかがえます。これこそが『琉球入ノ記』でみた「大石火矢」なのではないでしょうか。

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2009年4月29日 (水)

渡嘉敷に恐竜!?

史料をめくっていると、たまに不可解な出来事を記述した箇所に出くわすことがあります。琉球王国の正史『球陽』には、なんと1698年に渡嘉敷島の海で「異獣」が目撃された怪事件が記されています。

それによると、渡嘉敷島の海浜を巡視していた役人たちが、付近の黒島の海中から突如出現しサンゴ礁のフチにうずくまる異様な動物を発見したとあります。その動物の体は黒いウシに似ていて、顔と耳・目はブタのようであったとのこと。4本の脚には水かきが付いており、まつ毛とヒゲは白色、尾はまっすぐで約30センチ、太さ約10センチ。鳴き声はウシのようで、うずくまる姿は犬のようであったといいます。驚いた役人たちは村へ知らせに行き、翌日、大勢の村人たちと現場へ向かいましたが、すでに怪生物の姿はありませんでした。

慶良間諸島の近海にはクジラが出現することが知られていますが、身体的特徴からみると、どうもちがいます。ジュゴンとも一致しません。我々が見たことのない新種の生物なのでしょうか。まさか絶滅せずに生き残った恐竜の一種?ネッシーやイエティ(雪男)のようなUMA(未確認生物)なのでは!?(ナ、ナンダッテー)

・・・と一瞬思ったのですが、いろいろ考えたところ、可能性として高いのはアシカやアザラシのたぐいではないかと思いつきました。2002年に東京の多摩川に現れ、日本中で話題になったアゴヒゲアザラシのタマちゃんをご記憶でしょうか。渡嘉敷島の「異獣」はいわばタマちゃんの琉球バージョンであり、今なら「トカちゃん」とでも命名され、見物客が殺到するかもしれないシロモノなのではないでしょうか。

当時の気候寒冷化と関連させ、この「異獣」をオットセイと推測する説もありますが、アシカの可能性も考えられます。かつて日本沿岸にはニホンアシカが1年を通じ生息していました(こちら参照)。この種は1975年を最後に目撃されなくなり、絶滅したと考えられています。300年前には相当数いたはずのニホンアシカが、まれに沖縄に回遊してきても不思議ではありません。

1581年にも名護の久志付近でアザラシらしき目撃例がありますが、沖縄周辺海域はアシカやアザラシの主要な生息地ではなく、沖縄で確認された事例があるのか、さらに調査する必要があるでしょう。みなさんも沖縄の海で泳ぐだけでなく、海面をながめてみては。もしかしたら変な生物が見つかるかもしれませんよ。

参考文献:『球陽』、北村伸治「沖縄の雪の古記録、沖縄近海の異獣古記録」(『沖縄技術ノート』4号)

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