2015年5月 8日 (金)

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2015年4月11日 (土)

ブログ卒業します

10年前(2005年)の今日、4月11日にこのブログ「目からウロコの琉球・沖縄史」を始めました。

10年前の最初の記事】 

当時はまだ「ブログ」なるものが登場し始めの頃で、インターネットの新しい可能性を開くものと期待されていました(真鍋かをりが「ブログの女王」と呼ばれていた頃です)。

その頃、東京の大学院で研究をしていた僕は沖縄の歴史がほとんど認知されていないことを痛感し、どうにか研究者以外の人たちに沖縄の歴史をわかりやすく伝えることができないかと漠然と考えていました。

伝承や数十年前の水準の一般書は沖縄県内を中心にそこそこありましたが、研究者が出した最新の論文などの成果を解説した書籍は少なく、ましてや当時は沖縄の歴史についてネット検索しても、手作りのホームページで簡単な沖縄の歴史年表や概説がある程度でした。

この試みは大学院での研究とは全く関係なく、研究者としてのキャリアで考えればムダなことです。また時代の先端を行くインターネットと、大昔の歴史をどうやって「混ぜれば」いいのか見当もつきません。華やかな(ように見えた)ネットの片すみでヒッソリとやればいいか、と「ホームページ・ビルダー」を購入して、いろいろと模索していました。

そこに「ブログ」という存在を知ります。こっちのほうが簡単でデザインもキレイだし、何より当時のホットなツールだったので、ここで沖縄の歴史ブログを始めることにしたのです(ホームページ・ビルダーは無駄になりましたが)。タイトルはベタに「琉球・沖縄史の世界」を考えていましたが(笑)、ある時ふと思いついたのが「目からウロコの~」というタイトル。これだ!と決定。

それで始めたのが10年前の今日でした。

試行錯誤の日々でしたが、少しずつ読者を獲得し、話題になっていきました。そして、1年も経たないうちに沖縄の出版社ボーダーインクさんから書籍化のお声がかかります(2006年2月)。当時は匿名でコッソリやってたので本名で単行本を出すのは迷いましたが、同業者から「アホなことしてやがる」と言われてもいいや、と結局「エイヤッ!」と顔バレしてしまいました(笑)

2007年に刊行された『目からウロコの琉球・沖縄史』はそれまでにない沖縄歴史本として結構な話題となり、沖縄県内でベストセラーになってしまいました。そこからはほぼ毎年、本を出し(直近の刊行予定を含めれば13冊になります)、あれよあれよとテレビや雑誌等のメディアにも出させてもらい、完全オマケのつもりでやっていた活動が忙しくなっていきました。ブログは基本的に週1の記事更新を心がけ、10年で記事総数はちょうど500件となりました。

******

歴史研究をやっている立場から「現代」の沖縄の歴史をめぐる状況をみた場合、30年前に先学がまいた種がようやく花を咲かせたように感じます。今や琉球史がエンターテイメントとなり、テレビや雑誌・本・ネット、行政運営や町おこしにも歴史が前面に出てくる時代です。百花繚乱の感があります。琉球史は(少なくとも沖縄県内においては)メジャーな存在となり、10年間でこの流れを作る動きに僕も少しばかり力になれたかと思います。この流れはさらに加速していくことでしょう。

そこで区切りのいい10年で、一定の役割を果たしたこのブログを終えることにしました。もちろんこのまま続けてもいいはずですが、もともと「完全オマケ」で気軽に始めたものをダラダラ続けて、いつの間にか更新が途絶えるより、節目でスッパリ気持ちよく終わりたいなと思いました。

次の僕の課題は「近世・琉球王朝イメージ」ではない新しい沖縄の歴史像をつむぐことです。以前よりずっと気にしていたことなのですが、琉球史の普及は一方で沖縄の歴史=首里城、琉球王朝のイメージを固定化させてしまったような側面があります。でも沖縄の歴史は貝塚時代だって明治時代だって戦後米軍統治時代だって沖縄の歴史で、琉球時代と対等な価値を持っているはず。それがあまり関心を持たれていないように感じます。

そしてもう一つの課題は、上記の課題やこれまでの「目からウロコ~」で紹介した多様な歴史の局面をふくめて、ブログではない別のカタチで多くの人にわかりやすく噛み砕き、さらに裾野を広げることです。

ブログ自体は削除しませんが、記事更新は終了したいと思います。今後のネットでの活動はまだ固まっていませんが、告知などはブログ以外のネットのツール(SNSなど)で新しいカタチにして再スタートできれば。マンガもツイッターやnoteなどで継続しようと思っています。とりあえずツイッターは【こちら】です。

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長々と書き連ねてきましたが、このブログを続けたことで、そのまま「研究者」でいれば味わえなかった貴重な体験をさせてもらいました。結論は「やってみて良かった(僕にしては出来すぎ)」です。

ブログは終了しますが、本の執筆や講演など歴史の活動は続けていきますので、またよろしくお願いします。

では、10年にわたるブログをここで終わります。長らくのご愛顧、ありがとうございました!

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ゆる琉球史マンガ(17)

今回は「落ちこぼれカマド君」です【クリックで画像拡大。スマホは「PC表示」推奨】

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2015年4月10日 (金)

薩摩は琉球より格下!?

薩摩といえば1609年に琉球王国を占領した「支配者」です。琉球は薩摩に毎年税を払い、あいさつに出向き、さまざまな政治的な制約を受け、いわば「子分」のような存在になってしまったわけです。しかし、かつては琉球王国が薩摩の上に立ち、薩摩がへりくだっていたとしたら?「まさか!あんなに強い薩摩が弱小の琉球王国の下につくなんて考えられない!」と思う読者もいることでしょう。しかし最近の琉球と薩摩との関係を分析した歴史研究では、驚くべき説が出されています。

1500年代はじめの尚真王の時代、琉球は中央集権化を達成して八重山や久米島を征服、奄美大島にも攻め込んで反乱を鎮圧し、琉球史上の最大版図を築いていました。一方の薩摩は島津の分家がそれぞれ分裂して、守護職をもつ島津本宗家に対抗し、さらに国人領主も台頭、島津氏領国は統一にはほど遠い状態でした。さらにこうした内乱に乗じて日向(宮崎県)の伊東氏や肥後(熊本県)の相良氏が島津氏領内を浸食しつつありました。この時期の島津家当主の忠昌は、領国内をまとめきれず悲観して1508年に自殺してしまうほどでした。

現代のわれわれは「薩摩」と聞くと「九州の覇者」、明治維新を主導した強藩、かつ琉球の支配者というイメージがありますが、こうして強くなるのは戦国時代末期からであって、昔からずっと変わらずに強大だったのではありません。とくに中世の島津氏は弱体化していて、薩摩一国すら満足に統治できなかったのです。こんな状態で琉球まで支配をおよぼすなんて、できるはずがありません。

その反面、琉球王国はどんどん勢力を拡大していました。琉球は奄美や先島をその勢力下におくだけではありませんでした。奄美より北のトカラ列島(七島衆)、そして鉄砲伝来で有名な種子島氏まで自らの「臣下」と位置づけていました。1450年の時点でトカラ列島の臥蛇島は薩摩と分割統治されており、琉球の実効支配が薩摩のすぐ近くに迫っていたことがわかります。また1521年には琉球の三司官から種子島氏に手紙が送られ、種子島氏の以前より忠節を尽くしていることを喜び、年1隻の貿易船を派遣する権利を与えています。琉球は種子島氏を島津氏の家来ではなく、単独の「国」としてあつかっています。

種子島氏だけではなく、肥後の相良氏とも一種の「朝貢」のような関係を築き、琉球へ使者を派遣して貿易船の入港を認められたようです。つまり、尚真王から尚清王にかけての絶頂期の琉球王国は、みずからを中心とした世界秩序を奄美や先島だけではなく、九州の南部にまで拡大しようとしていたのです(それは一時的、形式的なものでしたが)。

日向の飫肥(おび)を拠点にしていた島津氏の分家である島津忠朝も琉球に使者を派遣していますが、その手紙のなかでは尚真王のことを「前皇(前の皇帝)」、尚清王の手紙を「詔書(皇帝が出す文書)」と表現していて、みずから琉球の下にある存在と認めています。さらに1508年、島津本宗家の家督を継承した島津忠治は、きわめて低姿勢で尚真王に手紙を送り、美辞麗句で琉球をたたえ、自分たち薩摩を「下国(琉球より下の国)」、琉球国王の名前を文書中で一段高く書いています(琉球の中国皇帝に対する態度と同じ)。

当主も自殺して本宗家の権威が地に落ちた島津家は琉球を頼り、薩摩から琉球への貿易権を自分に独占させてもらうよう頼むためでした。その独占によって領国内で勢力を復活させる必要があったのです。ただ琉球側はこうした島津氏の頼みについては認めなかったようです。

「薩摩が強い、琉球が弱い」という、現在定着したイメージですべての時代をみてはいけないことがおわかりでしょう。時代によって両者の関係は波のように変化するのです。こうした薩摩の混乱は、まもなく分家から出た島津忠良と貴久親子によって終息し、次第に「九州の覇者」へとなっていきます。その頃から薩摩の琉球に対する態度が変わりはじめ、大きな力をバックに無理難題を琉球に迫りはじめます。こうした動きは1609年の琉球征服へとつながっていくのです。

参考文献:村井章介「古琉球をめぐる冊封関係と海域交流」(村井章介・三谷博編『琉球からみた世界史』)、屋良健一郎「種子島氏と琉球」(島村幸一編『琉球 交叉する歴史と文化』)

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2015年4月 9日 (木)

95年前の落書き

戦前、護佐丸の墓が観光名所となり、観光客が記念にフクギの幹に落書きをしていたことを紹介しましたが(こちら)、今帰仁村の大西墓でも、おびただしい量の落書きが残っていることを見つけました。

大西墓は16世紀から今帰仁グスクに常駐した山北監守の一族の墓。運天港の丘陵の崖を利用したものです。墓の壁面は漆喰で塗られていますが、一面にびっしり落書きが書かれています。

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たとえば…

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大正九年(1920)七月廿一日詣了

有銘興昭
又吉康吉
山里将昌

なんと!今から95年前の落書きがそのままキレイに残っているのです。

このなかの有銘興昭、もしかしたら戦前の『沖縄教育』などを編集した教育家と同姓同名なので、同一人物の可能性もあります。

また

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Img_3978_3

昭和十六年七八月
二高女
安里■子

これは太平洋戦争開戦直前の昭和16年の落書きです。「二高女」とは那覇市にあった第二高等女学校。安里さん、現在でも存命なのでしょうか…?(ご存命の場合を考え、一部をモザイクで隠しました)

このほかにも戦後の1950年代のものや、新しいものでは平成一桁の落書きもあります。それにしても墓に落書きとはバチ当たりですね(笑)しかし、これはこれで近代沖縄の歴史の跡ですから、消さずにキチンと残しておいてもらいたいと思います。

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2015年4月 8日 (水)

緑茶大好き琉球人!?

沖縄でおなじみのお茶と言えば、ジャスミンの香りが特徴のサンピン茶。中国から伝わって現在でも親しまれています。ウーロン茶も本土で広まる以前からすでに沖縄で飲まれていました。しかし琉球王国の時代には「清明茶」や「高山茶」といった中国系のお茶のほかに、日本の緑茶も広く飲まれていたのはあまり知られていない事実です。

古琉球の時代、都の首里や港町の那覇には多くの禅宗寺院がありました。発掘調査では寺院跡から天目茶碗などが多く出土していて、仏教とともにお茶の文化も入っていたようです。1600年前後には堺から喜安という茶道に通じた日本人が渡来し、茶道の師範として王府に取り立てられました。堺といえば、あの千利休のいた場所ですね。喜安も利休の流れをくむ茶人だったと伝えられています。やがて琉球で茶道は士族のたしなむ芸の一つとして位置づけられていきます。

当時の琉球人はどのようなお茶が好みだったのでしょうか?最近の研究によると、熊本県人吉市と球磨(くま)郡一帯で作られた求麻茶(くまちゃ)が人気だったといいます。求麻茶は士族から庶民まで広く好まれ、薩摩藩を通じて琉球に大量に輸入されていました。その理由は、求麻茶が緑茶のなかでも香りが強い種類だったこと。どうやら琉球の人々は、サンピン茶のような香りのあるお茶が好きな傾向があったようです。ただ、あれだけ人気のあった求麻茶は、現在の沖縄では忘れ去られてしまいました。

お茶は輸入するだけでなく、琉球国内で生産することも試みられました。1627年に薩摩からお茶の種を持ち帰って現在の宜野座村漢那で栽培したのが最初で、1673年には久米島でも茶園が作られています。1733年には浦添に王府経営の茶園が開かれ、王家のために和漢の茶が生産されました。浦添市にある茶山団地がその場所です。現在では茶園の痕跡はありませんが、その名前だけが当時を伝えているわけです。王国滅亡直後の1882年(明治15)には年50斤(約30キロ)が生産されたといいます。

琉球の人々はサンピン茶だけでなく、さまざまな種類のお茶を楽しんでいたことがおわかりでしょう。ただ、あまりの琉球人の求麻茶好きぶりに、産地の農民たちはお茶の増産、重労働を強いられ、ついには生産者たちが百姓一揆を起こしてしまいます。まさか琉球の人々は自分たちが楽しんでるお茶のおかげで、海の向こうでそんな事態を巻き起こしてしまったとは夢にも思わなかったでしょう…

参考文献:武井弘一「茶と琉球人」(『南島における民族と宗教 沖縄研究ノート』19号)

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2015年4月 7日 (火)

沖縄は昔から「長寿の島」だった?

沖縄といえば「長寿の島」として知られています(最近はメタボ化でヤバイですが…)。食べ物や気候、ストレスをためない大らか(テーゲー)な気風が影響しているとも言われますが、歴史的にみてどうなのでしょうか。

王国時代といえば現在よりも医療設備は未熟で、栄養や衛生面でも劣っています。たとえば士族の毛氏(久米村)家譜をみると記載の256名中、平均寿命は47.4歳。幼少期に死んでいる例で最年少は1歳、18歳以下の死亡者数は19名(約7%)です。やはり年少者の死亡率は現在よりも高いのはまず間違いないでしょうが、一方でどれだけの長生きの人たちがいたのでしょうか。

王国の正史『球陽』には、18世紀に入るとしばしば長寿のお年寄りを表彰する記事が登場します。たとえば1753年には読谷山間切(現・読谷村)の楚辺村に住んでいた真刈(まかる)島袋が100歳になったので王府に表彰され、親雲上の位と糸綿、綿布を与えられています。こうした長寿の表彰記事は1746~1876年の間に51件も出てきます。

そしてその最高齢は…なんと105歳!伊良部島の佐和田村に住む女性、志良屋さん。1843年に表彰されています。日本の渚百選にも選ばれている佐和田の浜が心身を癒していたためでしょうか?(笑)おそらく王国時代の最高齢記録はこの方でしょう。彼女は王府より、毎月米1斗2升を支給されることになりました。亡くなった年齢はわかりませんが、表彰後もしばらく存命だったはずです。

全体の傾向をみると、高齢者の暮らしている地域は首里や那覇、離島地域が若干多いものの、とくに大きな偏りはなく、また身分によって差があるということでもないようです。プレゼント品はだいたい木綿布とか紬。まれにお米支給や扁額も与えられています。たとえば1869年に100歳になった首里の仲嶺里之子親雲上元孟さんは「太平上寿」と書かれた額をもらっています。あと、与えられるのは名誉称号や位もあります。「黄冠(親雲上)の妻」や間切の名目上の領主などです。

こうしてみると、意外にも沖縄は昔から長寿の島だったんじゃないかと思えてきます。では全体として長寿の人がどれだけいたのでしょうか。1872年には王国全体の高齢者の数が調査されています。それによると80歳以上の高齢者は2005名(男552名、女1453名)。この当時の全人口は16万6782名なので(『琉球藩雑記』)、高齢者の割合は1.2パーセントほどです。現在の沖縄県の人口に対する75歳以上の高齢者の割合はおよそ8パーセントですから(2010年時点)、やはり高齢化は進んでいると言えるのではないでしょうか。

ちなみに1872年の調査で、王府は高齢者の皆さん全員に扇子やタバコ、タバコ入れを配ったそうです。

参考文献:『球陽』、田名真之『沖縄近世史の諸相』、沖縄県「沖縄県高齢者保健福祉計画(平成21年度から23年度)」、『久米毛氏四百年記念誌 鼎』

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2015年4月 6日 (月)

首里城石垣の刻印

本土の城で石垣の表面に文字や記号が刻印されているものがあることは比較的知られています。工事担当者の所属などを示すためです。では琉球のグスクはどうだったのでしょうか?

実は、首里城にも石垣に刻印された事例が確認されています。首里城は戦争で破壊されましたが、一部の石垣は残存していました。この残存箇所のうち、久慶門(現在の城の出口付近)に残った石垣からさまざまな刻印された記号が見つかっているのです。そのパターンは実に41パターンもあります(残念ながら復元で大半のものは撤去されています)。

Photo(刻印のパターンの一部)

特徴としては地面近くに多くが存在すること、確認された80%が城壁内の面にあること、まんべんなく点在するのではなく、特定の箇所に集中してることなどです。

この刻印はどのような目的があったのか、その意味については解明されていません。考えられるのは本土の城のように工事の担当者がわかるように、その印をマークした可能性です。座喜味グスク築城では分担した石垣工事で担当者がわかるように各担当の名を刻んで近世までそれは確認できた、という話が護佐丸子孫の著した由来記に書かれています(実際には風化が激しく確認できませんでしたが)。

もしかしたら首里城の刻印もそうした意味があったのかもしれませんが、真相は不明です。他のグスクの城壁も注意して見たら、何らかの刻印がある可能性もあります。事例がもっと集まってくれば何かわかるかもしれませんね。

参考文献:上地克哉・上原靜「首里城城郭検出の「刻印石」」(『沖縄県教育庁 文化課紀要』9号)

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2015年4月 5日 (日)

ゆる琉球史マンガ(16)

今回は「琉球ヘアスタイルのひみつ」です【クリックで画像拡大。スマホは「PC表示」推奨】

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2015年4月 4日 (土)

安慶名グスクに新たな穴!

安慶名グスクの石積みに不思議な穴が開いているのはブログでも紹介しましたが、以前この穴の方角をはかったところ、みごとに東西の方角に一致していました(こちら)。この穴は軍事用の銃眼ではなく、意図的に方角を合わせた宗教的な意味があったのではないかと推測しました。

その後、たまたま安慶名グスクに行ったところ、草が刈られた城壁外から別の穴らしきものを発見(クリックで画像拡大)。

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さらに調査を重ねたところ、同行の田本翼氏が該当箇所の城壁内においても穴を発見、その穴は外部に貫通していることを確認しました。安慶名グスクはこれまで知られていた穴のほかに、もう一つの穴が存在したのです(すでに教育委員会で確認済かもしれません)。

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そして、気になる穴の方角。なんとこの穴は南北の方角に一致するではありませんか!これは偶然の一致ではなく、意図的に穴を東西・南北の方角に合わせたとしか考えられません。なお画像を見てもわかるように、奥行きと穴の大きさから銃眼として使用するのはかなり無理があります。

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今回の調査の結果、以前僕が唱えた「グスクの穴と方角の思想」(『琉球新報』2010年12月2日)の推論が証明されたといえるのではないでしょうか。

中城グスクも同様に、グスクの城壁に東西南北の穴を通す慣行があったことは間違いありません。次の問題は、それらが具体的にどのような意味を持っていたのか、そのナゾを解明することです。後続の研究を待ちたいと思います。

※調査に同行し協力いただいた田本翼氏に記して感謝します。

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«古琉球ハチマチの巻き方(試案)